とたたたた、と足音が廊を駆ける。エルダールにしてはずいぶんと大きく響くそれは、しかし当人の足取りの軽やかさからか、はたまた身体そのものが軽いせいか、決して品を損なうことのないかわいらしいものだ。フィンゴルフィンの屋敷の者たちは坂道を転がる団栗のように駆ける小さな姿をほほえましく見やり、同時に、いまにもひっくり返りそうな危なっかしい足取りをはらはらと見守りながら、一目散に駆ける小さな公子へと道を譲ってやるのだった。

 伯父の屋敷に到着してすぐにフィンロドが目指す場所は決まっている。幼いながらにうつくしく整った容姿に満面の笑みを浮かべながら、とたたたたた、と走る彼は、迷うことなくひとつの部屋の前まで到着すると、息を整える間もなくトントントントンとせわしなくノックを繰り返した。
「トゥアゴン!」
 返事を待つことなく扉を開ける。とたんに、ふわりと身体が宙に浮いた。比喩でなく、両足が地面から離れてしまったのだ。突然の浮遊感にフィンロドがきょとんと眼を丸めていると、「つかまえた」と聞きなれた声が呆れたふうに言った。
「お前は……気持ちはわかるが少し落ちつけ。廊下を走るな。ノックをするなら返事を待て」
 あいさつくらいきちんとしろ、と続けられ、フィンロドはこくこくと頷いた。まだ年若いがフィンロドに比べれば充分に丈のある従兄に持ち上げられたまま、「こんにちは、フィンゴン兄上。とてもすてきな陽気の、とてもすてきな日和だね」と、少しばかり間の抜けたあいさつを口にする。フィンゴンはそのようすにやはり呆れたふうな表情を見せたが、しかしすぐにくすりと笑い、「それでいい」と言った。「父上にもそうやって、礼儀正しくな」
 フィンゴンにこういったふうに言い聞かせられるとき、フィンロドは兄弟とは本当に血の近い関係にあることをしみじみと実感する。フィンロドの周りの大人たちはよく彼らをあまり似ていない兄弟だというけれど、そんなことはない。だってフィンロドが「あとでもいい?」と聞くと、少しだけ黙ってから、しかたないなという顔をするところなんて、誰がどうみてもそっくりなのだから。
 そっと地面に降ろされて、フィンロドはとんとんと、重力を確かめるかのように軽く跳びながら従兄を見上げた。「トゥアゴンは?」
「……」フィンゴンは怪訝そうに言った。「いないか?」
 いないよ、とフィンロドは言う。いつも彼がいるはずの彼の部屋――いつも彼が座って本を読んでいるはずの彼のいす――いつも彼が向き合っているはずの彼のつくえ――どこにもいない。
 寝室かしら。思って、フィンロドはふたたび、とたたたたた、とトゥアゴンの部屋を駆け(フィンゴンの手がまた追ったけれど、今度はすり抜けてつかまらなかった)彼の姿を探したけれど、やっぱりどこにもいなかった。気配がない。彼はこのあたりにいない。
「ねえフィンゴン兄上、トゥアゴンはどこにいるの?」
 小首をかしげて見上げるも、返ってきたのは「さぁ……」という、あいまいで頼りない言葉だけだった。フィンロドはいよいよ首をかたむけ、「どこへ行ってしまったのかなぁ」とつぶやいた。ほとんど間違いなくこの部屋にいるものだと思っていたフィンロドは、むむむ、と眉を寄せて考えてしまう。「ねぇフィンゴン兄上。兄上はトゥアゴンの兄上なのに、トゥアゴンのいる場所を知らないの?」
「お前はフィナルフィン伯父上の子だが、いま伯父上がどこでなにをしてらっしゃるか知っているか?」
「…………」フィンロドは言われていることの意味をはかりかねて、うつむいてじっと考えた。「父上は、たぶん、おうちでお昼寝をしている。……かも、しれない」
 けれど、お花をめでているかもしれないし、お食事をとっているかもしれない。フィンロドの知らないだれかと談笑していらっしゃるかもしれないし、ひょっとしたら、竪琴を手にうたを歌われているかもしれない。
「うんん、……ごめんなさい、フィンゴン兄上。私は父上の子どもだけれど、父上がいまなにをしているかなんて、ちっともわからないや」
 フィンロドが頭をさげると、フィンゴンは笑ってそれを混ぜるように撫でた。さらさらと金色の髪を揺らして、フィンロドもくすくすと笑う。「けれどほんとうに、トゥアゴンはどこへ行ってしまったのかしら」
「まぁ、あいつの行動範囲はフィナルフィン伯父上よりはるかに狭いからな。そのうちに見つかるだろう。ところでフィンロド」
「なあに?」
「私はお前の兄ではないのに、どうして私のことを兄上と呼ぶんだ?」
 問われて、フィンロドは目を丸くした。考えたこともなかったからだ。「だって……トゥアゴンは兄上のことを兄上と呼ぶでしょう?」
「それはトゥアゴンが私の弟だからだろう?」
 言われてみればそのとおりだった。
 フィンゴンはフィンロドの兄ではないし、フィンロドはフィンゴンの弟ではない。仲の良い兄弟のようね、と言われたことは何度となくあるが、フィンゴンの弟は、ほんとうはトゥアゴンひとりだけで、フィンロドは別なのだ。
「……それでは、私はフィンゴン兄上のことをなんて呼べばいいの?」
 フィンロドは自分でもわからないうちに不安げな声でそう言った。フィンロドには兄がいないから、兄上と呼べる相手はフィンゴンしかいない。トゥアゴンとおなじように、彼のことを兄と慕ってはいけないのだろうか。まちがっているのだろうか。
 うつむいてしまったフィンロドを、フィンゴンはすこし困ったみたいに見つめて、そのちいさな頭をふわりと撫でた。装飾に彩られずとも充分に煌めいて見えるうつくしい金糸はさらりと揺れて、てのひらに心地よい名残をあたえた。フィンゴンはほほえんだ。
「お前が呼びたいように呼べばいい。けれど、そうだな、私がお前の兄でないことはたしかなのだから、もしもトゥアゴンの真似をしたいだけなのだとしたら、ひとつ提案がある」
「なに?」
 フィンロドが首をかしげると、フィンゴンすこし身体を屈ませ、幼子のおおきな瞳と視線の高さをあわせた。ふたつ並んだうつくしい青色に、にっこりと笑いかける。
「フィンゴン、と呼べばいい。私とお前は兄弟ではないけれど、友人同士ではあるのだから。お前がトゥアゴンをそう呼ぶように、私のこともフィンゴンと呼べばいい」
 フィンロドはそれを聞いて、ぱちぱちと何度かまたたきを繰り返した。フィンゴン、と呼ぶ。トゥアゴンは彼のことを兄上と言うけれど、フィンロドはそれとは別で、だから、彼のことを友としてフィンゴンと呼ぶ。
「フィンゴン」と口に出して言うと、従兄はくすりと笑んで「それでいい」と言った。
 フィンロドは嬉しくなって、たまらずフィンゴンの首に抱きついた。突然のことに彼はびっくりして声をあげたけれど、ともに倒れこむようなことはせずに踏みとどまっていた。トゥアゴンだとこうはいかないので、やはり兄というのはすごいなとフィンロドは思う。さっきまでの不安な気持ちなんて、とっくにどこかへ消えてしまっていた。
「フィンゴン、フィンゴン!」
「ん、ああ、なんだ?」
 従兄に身体をすりよせながらぴょんぴょんと跳びはね、フィンロドは言った。「ねぇ、フィンゴン、それで、トゥアゴンはいったいどこへ行ってしまったのだろうね?」


 目当てのひとを見つけるやいなや、フィンロドはふたたび、とたたたたたと足音を転がしながら駆けだした。「トゥアゴン!」とはしゃいだ声をあげると、庭園の真ん中にいた彼は顔をあげて、ゆっくりと頬をゆるめた。けれどそのくちびるが、フィンロド、と名を返すよりはやく、トゥアゴンは仰向けにひっくりかえるはめになった。勢いよく跳びついてきた従兄弟の、その体重を支えきれず、ふたりしてごろんと土の上に転がったのである。
 草花がクッションのように幼いふたりの身体を受け止めていた。フィンロドに抱きつかれたままで目を白黒させていたトゥアゴンは、正気に戻るや、よいしょと身を起こしてぷるぷると首を振った。黒い髪に引っかかっていた花びらがはらはらと落ちて、フィンロドはそれを見てくすくすと笑った。
「こんにちは、トゥアゴン! とてもすてきな陽気の、とてもすてきな日和だね!」
 彼の兄に告げられた言葉を思い出し、フィンロドはほほえんであいさつをする。そののんきな声を受けたトゥアゴンは、ちょっと困ったみたいに眉尻を下げて、ふうとひとつ息をついた。「こんにちは、フィンロド。いらっしゃい」
 心からの歓迎というよりはいくらか複雑そうなそのようすに、けれどフィンロドは満足げににこにこと笑顔を浮かべる。その上機嫌ぶりにトゥアゴンはすこし首をかしげたが、しかし彼がおしみなく笑みを浮かべているのはそう珍しいことではないので、まぁいいかと思って立ち上がった。
「わざわざ探しにきてくれたの?」
「うん、まっさきにきみに会いたくていっぱい走ってきたのに、お部屋にだれもいないんだもの。びっくりしたよ」
 けれどおかげで、とてもすてきなことを教えてもらったよ。
 フィンロドはそう言って楽しげに笑った。その笑顔を眺めながら、トゥアゴンは衣服に草花や土がついていないか、そっと両手で自分の身体を払った。おなじように、尻もちから立ちあがったフィンロドの服もはたいてやる。それはよかった、と言った。心からの本心だった。
「けれどねフィンロド、まっさきに私のところへと来てくれたのはほんとうに嬉しいのだけれど、まずは父上のところへごあいさつに行かなくちゃ」
 それが屋敷のルールだったはずだよ、と言ったトゥアゴンに、フィンロドはちょっとだけ目を丸め、なにを言っているのさ、と返した。
「もちろんだよ。私はねトゥアゴン、伯父上にごあいさつへ行くために、きみを誘いにきたんだから」
 そう告げると、トゥアゴンはきょとんとフィンロドを見つめ、それからちょっとだけ呆れたみたいな顔をして、けれど最後には、しかたないなというふうに笑ってみせた。
 そのようすがフィンゴンとあまりによく似ていたので、彼ら兄弟のふたりとも、なんて愛しくて大切な友人なのだろうと思い、フィンロドはいっそうにこにこと笑んだのだった。


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