「二本」
と、唐突に告げられ、同時に眉と眉の間を指先が触れた。
トゥアゴンは何度か瞬いて、にほん、とつぶやく。復唱してようやくその意味を理解して、額を押さえるように片手でおおった。無意識に寄っていた眉根は、たしかに深くしわを刻んでいたらしかった。
「気をつけたほうがいいよ」と彼が笑う。「くせにでもなってしまったら大変だ。きっときみのことだから、いつまでたっても治らない」
そんな忠告を受けるまでもなく、とうにくせになっている。そう思うと再び渋面を浮かばせてしまいそうで、トゥアゴンはどうしたものかと嘆息した。だれも好んでしかめっ面をしたいわけではない。その心中を容易に悟ったか、しわの本数まで数えてくれた律儀な従兄弟はというと、どことなく呆れたふうに首を傾けていた。
「最近のきみは、いつもむつかしそうな顔をしている」
「そうかな」
「自覚がない? 現に今だって、やって来た私に挨拶もしないでぼうっとしていたじゃないか」
それは違う。彼は挨拶どころか、遅刻してきた詫びも口にせず、突然ひとの眉間に人差し指をつきたててきたのだから。
そう指摘すると、フィンロドはきょとりと目を丸め、ああそうだった、ととぼけたことを言った。「それは悪かったね、私から呼び出したというのに。きみに逢えると思ったら浮かれてしまって」
悪びれもなくそんなことを言ってのけると、彼は実際に浮かれたようすで足取り軽く、舞うような鮮やかさで身を翻すとトゥアゴンの背後に回った。まるで最初からこの位置が予定されていたかのような調子で、青い草間はフィンロドを迎えて揺れる。
正面でも隣でもなく、完全に死角となる後方を陣取られ、トゥアゴンは訝しげに振り返った。都からいくらもはなれていないこの小森で待ち合わせることはままあったが、顔を合わせて早々、フィンロドが姿を隠してしまうというのは珍しい。
もっとも、どうにも風変わりなところのあるこの友人が唐突にふしぎな行動を起こすことそれ自体は、決して珍しい出来事ではないけれど。
なにを企んでいる、と視線で訴えると、いつもどおりに上機嫌な彼は惜しみなく浮かべる笑みでそれをやりすごす。トゥアゴンは嘆息した。どういうわけだかはわからないが、フィンロドという人物の持つ笑顔というのはおどろくほど綺麗で、同時に大方の物事をなんとなく良い方向に流させてしまうような、そんな不思議な力を持っているのだ。うつくしい宝石を目の前に翳せば、だいたいは心が洗われるもの。そしてこの地に住まう多くのものがそのうつくしさに抗うすべを持たず、もちろん、それはトゥアゴンとて例外ではないのだった。どころか、へたをすれば最弱の称号さえ得られるかもしれない。基本的に負けっぱなしなのだ。
連敗記録は日々更新され続け、もはや戦う気力さえも残ってはいない。もとより勝敗などない関係であるし、なによりも彼の気まぐれにいちいち文句をつけていては疲れるだけだ。己に言い聞かせるトゥアゴンに、フィンロドはそれを察したふうもなくとんとんと両肩を軽く叩いた。こちらを見ないで、と囁くような声で言う。
「きみは前を向いて、そう、ほら」両の手で頬をそっとつかまれ、前方へと視線を固定される。「私がいいと言うまで、振り返ってはいけないよ?」
「…………」
こうなっては、なにを言ったところで意味を成さない。あきらめて口を噤み、不承不承というふうに前方を見据えたトゥアゴンに、フィンロドは「それでいい」と言いながらおかしげに笑った。
「ねえトゥアゴン。私にはいまきみの顔が見えないわけだけれど」そんな当たり前のことを一度確認してから、意地悪げな声音を含んで言う。「それでも、きみがいったいどんな表情をしているのか、手に取るようにわかるよ」
トゥアゴンが黙ったまま再び眉間を押さえると、フィンロドはいっそうくすくすと声に出して笑ってみせた。どうも彼のその楽しそうなようすを考えると、眉を寄せていようがいまいが別段気にしていないように思えた。トゥアゴンがせいいっぱいに気を使ってむつかしい顔をしないよう努力したところで、それすら彼は軽く笑い飛ばしてしまうのだろう。そう思うと肩の力が抜けた。
「そう警戒しなくてもだいじょうぶ。なにか怖いことをしようというわけではないのだから」
「そういうことを言うな。逆におそろしくなる」
「ひねくれものだなあ」
とくに気分を害したふうもなくそう言うと、フィンロドは両の手を使ってトゥアゴンの黒の髪を梳いた。なんの承諾も得ないまま、自然な仕種で髪飾りを解いてゆく。
大人しく纏まっていた髪の束がはらりと落ちて、なんとはなしに、頭を悩ませていたものごとも髪といっしょにばらばらになってしまったような気がした。心配事というのはこんなところにまで詰まっているのか、と少しだけおどろきながら、彼のしようとすることを大まかに察して、トゥアゴンは嘆息と言うには少しばかりやわらかな息を吐いた。
フィンロド、と名を呼ぶ。
なに、とやさしい声が返された。
その声音と、ひどく柔らかく髪を梳く手の気配を感じながら、私にだってそれくらいはわかる、とトゥアゴンは思った。彼がいまどんな表情をしているか、そんなことは容易く、手に取るように。
「――……」思いながらも、けれどなんとなく口にする気にはなれず、トゥアゴンは代わりに「きみの姿が見えないのは怖い」と言った。どこか詩的なその語感を、ごまかすように続ける。「今度はいったいなにをしでかすのかと思うと、むつかしい顔にもなるというものだ」
そんな言葉にも、フィンロドは「それは申し訳ないね」と嬉しそうに笑うだけだった。彼にはこの気持ちの流れがすべて見えているのかもしれない、とトゥアゴンは半ば真剣に考える。どうにもこの友人は昔から、ひとの心のうちを勝手に撫でて掬ってゆくような節があるのだ。きみが顔に出易すぎるだけだよ、などと本人はうそぶくが、しかし背後に回ってですらこんなふうでは、トゥアゴンには逃げ場も勝ち目もないではないか。なんとなく理不尽な気持ちを覚えながら、トゥアゴンはこっそりと視線を伏せた。ならば、と思う。
ならばおそらく、自分がいまどれだけ穏やかな気持ちでまぶたをおろしたのかも、フィンロドにはきっとばれているのだろう。手に取るように、見えているのかもしれない。そう考えるとたしかに、姿が見えなくともさほど怖いことなどないのかもしれなかった。
黒の髪の合間をすくっていた彼の指が、ほどなく動きを止めた。よし、と満足げな声が聞こえる。「思ったとおり、よく似合う」
察するに、なにか新しい飾りを使って髪を結いなおしてくれたことは解るのだが、いかんせん手元に鏡のないトゥアゴンには、はたしてどういった具合に似合ったものを見繕ってくれたのか確かめるすべがない。
これだからおそろしいのだ、とトゥアゴンは心中でひそかに嘆息しつつ、「もうかまわないか」と訊ねた。
「なにが?」
「……いいと言うまで振り返るなと言ったろう」
「そういわれれば、たしかに」そんなことも言ったな、とフィンロドが笑う。「さすがはトゥアゴン。律儀だなあ」
他人事のように言ってのけるフィンロドに、まったくどうしてみずから言い出したことをそう簡単に忘れてしまっているのだろう、とトゥアゴンは呆れたが、しかしそれ以上に「ああ、けれどまだ駄目だ。もう少しそのままで待っていて」という彼の言葉のほうに肩を落とした。まだなにかあるのか。そう思うのと同時に、後頭部にそっとなにかが触れるのがわかった。
彼が口付けを落としたのだということは、もちろん、見えていなくとも容易く知れた。
そのあたたかさに少しおどろきながら、トゥアゴンは押し黙り、短い時間のあいだでいろいろと頭を使って考える。結果、
「……まじないかなにかか?」
と言った。
トゥアゴンは特別流行ごとに疎いというわけではなかったが、しかしその手の情報の大半はフィンロドから回されてくるものばかりだった。はたして都のあいだで、髪を結って口付けを落とし、なにか祈りごとでも捧げるようなまじないごとでも流行っているのだろうか。
至極真面目にそんな結論を出したトゥアゴンに、フィンロドは「それは楽しそうだなあ」と愉快そうに相槌を打つ。そのようすを見るに、どうもトゥアゴンの予想は外れたようだった。ならばこれも、いつもの彼の気まぐれということだろうか。
不審そうにするトゥアゴンにくすくすと笑うフィンロドの声だけが降る。彼は「ふうん」だの「なるほど」だのとおかしそうにつぶやき、「ううん、そうだね、ではそうしよう。いま決まった」と、ひとりで勝手になにかの決断を下した。
「相手に姿を見られないように髪を結って、最後に口付けをおとすと、願いがひとつ天に届きます」
まるで誰かに説明するかのような調子でそう告げる。フィンロドの声はそれ自体が魔法のように涼やかであったので、トゥアゴンは説明されなくとも「いま決まった」ものごとがなんなのか解った。
気まぐれがまじないごとに昇華したのだ。おそらく、もういくらも経たないうちに、都の乙女たちはこぞって想い人の背後を取ろうと張り切ることになるのだろう。流行とはだれかの言葉から広まってゆくもので、その不特定多数の「だれか」のなかに、散歩とおしゃべりを好むこの従兄弟が含まれるケースは珍しくない。
「……それはかまわないけれど」トゥアゴンは半ば呆れたようなようすで肩をすくめ、いまだ大人しく前方を向いたまま、姿の見えない従兄弟に問うた。「では、きみはいったい、なにを望んで口付けを?」
願いごととは言葉にしないのが定石だ。どうせ彼も答えはしないのだろうと思いながら訊ねたトゥアゴンに、けれどフィンロドはあっさりと「そんなの決まっているじゃないか」と返した。
なにをいまさら、と言わんばかりの声音に、トゥアゴンは首を傾げる。その頬のうえを、彼のきれいな指が、すいと撫でるように触れた。もういちど、先ほどと同じ場所に、あまやかなキスをほどこして、
「どうかきみが、おだやかに笑っていられますように」
そう囁いた。
囁いてから、思い出したかのように「ああ、ちがった。補足しても良い?」と誰に対してか上書きを求め、三度目のキスをした。
「それがむつかしいのならせめて、やさしい笑顔で私に口付けを返してくれますように」
「…………」
あまりにストレートな要求に、トゥアゴンは思わず硬直した。補足どころではない、まったく別の願いになっている。
そもそもそれは願いごとと呼べるのか。一種の強要ではないのか。そんな文句が心に浮かぶが、しかしトゥアゴンがそれを口にするよりさきに、彼はふっと立ち上がり、少しだけ距離を取った。「おまたせしました」と茶化すようなようすで言う。
「もう良いよ。こちらを向いてくれるかい、トゥアゴン?」
その言葉に含まれた意地悪げな色に、トゥアゴンは思わずふたたび渋面を浮かべた。この表情のまま振り返れば、おそらく彼は「私の願いは拒否されてしまったらしい」などとからかって笑うに違いなく、だからといっておとなしく微笑んでやれるほどトゥアゴンの表情筋は柔軟には出来ていない。
さてどうしたものかと悩む間もなく浮かぶのは、いつものとおりにきれいな笑みを浮かべる従兄弟の姿だ。トゥアゴンは溜息とも感嘆ともつかない息を吐いた。
ひどく釈然としない気持ちになったが、トゥアゴンのそんな心境は意にも介さないような、呆れるほどの笑顔。これほどのきれいなものなのに負けっぱなしというのは、けれど充分に仕方のないことなのではないかとさえ思いながら、トゥアゴンはともかくひとつ呼吸をした。
「……少し待ってくれないか」
フィンロドはそれに吹き出して笑うと、「いやだよ」と返す。笑いを噛み殺せていない震えた声だった。失礼なうえに容赦がない。
「きみは本当に律儀だなあ」
まるで他人事のように告げ、フィンロドは優雅な歩調で結局トゥアゴンの正面まで移動してきた。どこか調子を取るような仕種を見せながら、ゆっくりと腰を下ろす。
視線が合った。
この瞳と真っ直ぐに向かい合うのは、なぜかずいぶんと久しぶりのことのような気がした。
じいとこちらを見つめる彼は、想像通りにずいぶんと幸福そうである。「ううん、ほんとうに似合うな。とても良い」と何度か頷くそのようすを前に、トゥアゴンは苦々しげに目を細めて、けれどそれからなにか思い立ったふうに何度かまたたきを繰り返した。
「ああ、そうか」そう言って立ち上がる。
「なに、トゥアゴン? どうかした?」
「ひらめいた」言いながら、トゥアゴンは少しだけおかしげに笑ってみせた。至極もっともであろうというふうに、続ける。「口付けは髪を結ってからなのだろう?」
その言葉にフィンロドは一瞬だけ意味をはかりかねるような表情を浮かべて「なんだいそれは」と言ったが、すぐさまトゥアゴンの言わんとすることを悟って目を丸めた。
「あ、ええ? まさかいまから仕立てるのかい?」
「ああ」トゥアゴンは軽く頷いて歩き出すと、どこか焦ったような調子で隣をついて来る友人の金色の髪にやさしく触れた。「この金糸になにより映える、最高の髪飾りを用意しよう。口付けはそのあとだ」
トゥアゴンは自身の黒髪を飾る贈り物を指し、これの礼も兼ねて、と付け加えた。いまだどういった具合によく似合う髪飾りを結い上げてくれたものか、トゥアゴンには確認するすべがなかったが、とにかく彼を信用するならば、質の良いものには違いないのだろう。それに見合うお返しとなれば、必然手間も時間もかかるというものである。
「ずいぶんと卑怯な理屈だ。これでは敵前逃亡だよ、トゥアゴン」
「なんとでも」だいたいきみは敵ではない、とまではトゥアゴンは言わなかった。逃亡には違いないと思ったからだ。
隣を歩くフィンロドは、はたして実に腑に落ちないというふうにトゥアゴンを見上げてから、「ああ、失敗したなあ」と大仰に肩を落とした。歩調が拗ねてしまっている。
「ひとをからかおうとするからだ」
「そうではないよ」たしなめるように言ったトゥアゴンに、けれどフィンロドは本当に参ったようすで嘆息してみせた。「だって、ねえ、トゥアゴン。私のために髪飾りを仕立ててくれるのはとても嬉しいし、たとえそのついででもきちんと口付けを返してくれるのなら私にだってなんの文句もないよ。たしかに、想定したのとは少し違ってしまったけれど」
きみからもらえるものならなんだって嬉しいもの。と、フィンロドはなんのこともないふうにそう続ける。
「けれどねえ、トゥアゴン。きみは、ひとの髪を結うのが、決して得意ではないだろう?」
「…………」
「私は不安でしかたないよ。ああ、もう、失敗したなあ」
当たり前のようにとても失礼なことを言うフィンロドにトゥアゴンは憮然とし、同時に、彼が鏡を見たとき、その発言を進んで撤回するようなうつくしい仕上げにしてやろうと心に決める。イメージのなかで宝石を選び細工を考えると、楽しい気持ちにさえなってきた。
そのようすを見たフィンロドが、「ああ、なるほど。最初のねがいごとが叶ってしまった」とちいさく零したが、それは聞こえなかったことにして、さて自分は彼になにを祈ろうかとひそかに思案してほほえんだ。
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