とうに扉は開いてしまっているけれど、念のために一応コンコンと叩いて到着の合図。
「こんにちは、遊びに来たよ」と、殊勝なくらいに大人しい声量で伝えれば、こちらをちらりとも見るようすのない彼は、けれどやっぱり机にかじりついたままで目線をあげず、たっぷり一分近くは押し黙った結果、
「…………ん」
 と、返事とは言いがたい一文字を、やはりこちらを見ることなく言い放った。
 そんな客人に向けているとは思えない態度で迎えられ、フィンロドはけれどこれといって機嫌を損ねることもなく、その短い「ん」の中に「いらっしゃいませ申し訳ございませんが現在立て込んでおりますそちらにおかけになって少々お待ちください」の意味を汲んで室内を移動する。
 彼の書斎にはフィンロド専用といっていい質のよい長椅子があったが(というか、フィンロド自身が大昔に持ち込んだものだ。当時はぶつぶつと文句を言っていたようにも思うけれど、なんだかんだ捨てられないどころかどんな長旅から帰ってきてもいつでもきれいにしてある)なんとなくそちらに落ち着く気分ではなく、かけるには少し高い位置にある窓の枠にひょいと腰を下ろした。そんな一連の動きすら、トゥアゴンはまったく意に介したふうなく机上に視線を固定したままだった。まぁそうだろうね、とフィンロドは呟くことはせずに彼をじいと見つめる。
 辞書を作るのに凝っているというのはフィンゴン伝えで聞いていた話だ。なにかの作業に没頭しているときのトゥアゴンというのは大抵の場合こんな具合なので、フィンロドに出来ることといえば、一区切りつくまでぼんやりと待つことと、あとはきちんと休息をとっているのかどうか適度に心配することくらいである。
 辞書など何冊あっても仕方なし、そんな時間と労力を極端に割く仕事はティリオンの学者連中に任せてしまえばいいのに。そんなことをひそかに思うが、けれど本人が楽しそうなのだから仕方あるまい。外側から見える表情こそむつかしそうに眉根を寄せているが、あれは集中しているというより夢中になっているのだ。たとえば、フィンロドが待ちくたびれて腹を立てぷいっと怒りながら出て行ってしまったとしても、今の彼はあんまり気にしないだろう。そのくらいに意識の全てを机に向けてしまっている。もう半分くらいは眠っているようなものだと思うほかない。
 もちろん、フィンロドはこんなことくらいで怒り出したりしないので、そもそも意味のない仮定なのだけれど。
(こういうのは自業自得というのだろうか)
 考えて苦笑う。たとえば恋愛ごとならば定石である「押してだめなら引いてみろ」は、しかし残念ながらフィンロドには難しいようだった。気を惹かすためにわざわざ離れるというのは考えがたいし、おそらくそんな自分の考えは彼にも筒抜けなのだろう。
 そもそもが無理なのだ。
 会いたいと思えば会いに来るほかに選択肢がない。

「フィンロド」

 と、彼がはじめて意味のある言葉を口にした。少なくとも今日がはじまって一番、下手をすればこの数日くらいの間で唯一、誰かへと向けて声にした単語に違いない。その相手が自分で、その言葉が自分の名前だというのは、なかなかに喜ばしいことだと思えた。自己満足の類いではあるが。
 そんなひそやかな感情をじんわりと言葉尻にも滲ませて、フィンロドは「なに?」と軽く訊ねる。語感で会話が出来る程度には長い付き合いだ。トゥアゴンのそのようすから、「いらっしゃい待たせたねお茶にしようか」と続くわけではないことは、充分によくわかっていた。
 案の定というかなんというか、変わらずなにかの仇とでも言わんばかりに手元に一点集中するトゥアゴンの口からは、聞きなれない固有名詞がポーンと寄越され、それっきりだった。
 以心伝心。
 その固有名詞が、たぶんその辺に積み上げられている書物のタイトルか、あるいは内容に関するものだとフィンロドは即座に理解する。せめて『その山のなかにこれこれこういった内容の本が埋まっているはずだから、悪いが掘り返してこちらに持ってきてはもらえないか』と、その程度の文脈をこさえて伝えることはできないものだろうか。できないのだろう。賢者として名高い彼は、けれど間違っても器用ではない。
 わかってはいたものの、フィンロドは少しばかり拗ねるように肩をすくめた。無造作に拡がる資料の山の中で、適当に当たりをつけて開いた書物は古い。慣れない文字、慣れない文法。彼自身の筆跡で書かれたものも何冊か見つけ、ふと、自分が旅に出ている間も彼はこうして過ごしているのだなと思った。
 あたりまえだ。たとえどれほど緩慢な流れでも、時は停止しているわけではない。
 けれどそんな簡単なことをあえて認識しなおして、ついでに、ひょっとしてこの従兄弟は自分が思っている以上に秀でた頭脳を持っているのかもしれない、と思った。それも今更ではあるが、しかし、どうにも傍にいると忘れがちになってしまうのだから仕方ない。彼の賢者としての高名さは、フィンロドにとってはなんとなく付いてきてしまった尾ひれのようなもので、つまり後方を振り返ることのない彼にとってあまり関係のない事象なのだ。隣を歩くのに、どうして尾っぽまで気にする必要があるのか。
 そんなふうに思っていたのだが、けれど少し認識を改めよう。細く、どこか鋭利さを感じさせるトゥアゴンの字列は容易く目に馴染み、文面がそのまま言葉として耳に届きそうなほどに彼そのものだ。この才を見た誰かが彼を賢人と謳うのなら、たまには振り返って確認して、それを満足げに眺めることも楽しいだろう。
 思わぬところで思わぬ収穫を得て、フィンロドは知れずふふと笑った。このひどく叡智に富んだ彼がいずれ築きあげるなにかは、おそらくフィンロドにとっても誇らしく、そして歴史からも価値のあるものになるのだろう。そう考えると待ち遠しく、同時にどこか侘しくもあるのだった。
 そのときというのが、はたして今から数えてどれだけ先の未来に起こるのかはわからないけれど。
「…………」
 はたはたと捲くる古びた紙の束から、求められた記述を見つけ出し、フィンロドは手元と同時に思考を止めた。静かに静かに、やはり黙々と筆を動かすトゥアゴンにそっと近づき、その手元に差し出す。彼は「ありがとう」とだけ言葉を放って、それから再び黙り込んだ。
 その横顔をぼんやりと眺める。
 距離をつめてもさっぱり気に留めない彼のそのようすに、なぜかほっと息をついた。なにに対して安堵したのかはわからないが、フィンロドはそのとき確かに、彼がこちらを見ていないことに感謝していた。まぶたをおろし、そっと息を吐き、ゆっくりと目を開けると、彼はきちんとそこにいた。あたりまえだ。フィンロドを見ることもなく、ただ一心不乱にむつかしいものごとに集中する彼は、けれど間違いなくここにいる。
 そんなことを確認し、フィンロドはもう一度だけ、安堵の息を吐いた。
 彼がそこにいることが嬉しくて、思わず飛びついて抱きしめそうになったが、それをするとこの友人がもれなく機嫌を悪くすることはわかっていたので、とにかくめいっぱい微笑むだけに留めることにした。


***



 ふっと、トゥアゴンはひとつ呼吸を整えた。
 ようやく終わりの見えてきたひとつの作業に、一度区切りを入れて頭を休ませる。タイミングは良い。先ほどやって来た落ち着きのない従兄弟が、そろそろ飽いて他所へ行ってしまうかもしれなかったから。
 トゥアゴンはほんの少し疲れを訴える眼球を数秒だけ休息させ、それから、構ってやれずに放っておいた客人を見やる。
 当たり前のようにそばにいる彼は、けれどいつもの長椅子にではなく、トゥアゴンの真隣に膝をついてじいとこちらを眺めていた。にこにこと笑んで見上げるそのようすはひどく機嫌がよく、思わず目を丸める。
「ずいぶん近いな」
 思ったままに口にすると、彼は少しだけ不服そうに口を尖らせ、
「ひとの精一杯の譲歩に、ひどい言いようだね」
 そう言ってふわりと立ち上がり、今度こそ両腕を伸ばして、不思議そうにしている従兄弟をやわらかく抱きしめた。


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