波の音が聞こえない。
ふいに思って耳をすませても、やはり海面を打つかすかな響きは屋敷に届くことなく掻き消えているようだった。海岸を沿うネヴラストの地には、常に音楽が響いている。海の囁きと、それに応えるように騒ぐ海辺の民の歌声。波打ち際を渡る、やわらかな共鳴。
アナールの火が姿を隠そうとも鳴り止むことのないその声が、しかし、今宵に限って鼓膜を震わすことなくやんでいる。
トゥアゴンは凪の海を覗くように窓辺に身を近づけ、そして、屋敷の外にひとつ影を見つけて息をついた。
なにごとかと問う臣下の声を遮るように、さざなみをも黙させるようなうつくしい竪琴が奏でられる。その場にあった全員が納得したふうに屋敷のあるじを見やるのに、そう時間はかからなかった。
* * *
旅人はローブをまとった姿のまま岸辺で星を浴びていた。
青布に散らばるヴァルダの子らは競ってかの者の素顔を求めて瞬きをくりかえしたが、しかし彼はそのようなこと意に介さぬというふうに、ただ優美な仕種で弦をかきならすだけであった。トゥアゴンは嘆息し、凪いだ潮風を浴びながらその流浪のものに告げた。
「我が屋敷にようがあるのならば、正式に門をくぐり謁見を得てほしいものだ」
旅人は音を止めることなく、ふふと笑って返した。「けれど、門をくぐらなくともこうしてあるじ自ら迎えてくれるのだから、いや、ヴィンヤマールが旅のものに優しく真摯であるというのは本当らしいね」
「……本来なら、夜間に琴をかき鳴らして歩き回る不審な旅人など相手にしないが」
今宵の客人は特別だ、ということばに、旅人は嬉しげに笑みを浮かべてみせた。素顔こそいまだ夜の影に伏せたままであったが、それでもその場に光が差すかのような、輝いた微笑であった。
「それはつまり私が、放っておくとなにを仕出かすやらわからぬ、こまった旅人だからなのだろう?」
「わかっているのならば、いい加減にまともな形で訪問することを覚えてくれ。きみは私の家のものが、不振人物の来訪にこなれてゆくさまを見て楽しいか?」
「まさか」と言い、旅人は竪琴を止ませた。「私の機嫌が良いのはね、きみがこの地にいると知っているからだよ、トゥアゴン」
はらりと、彼の面を被っていたローブが落とされた。ふわりと波打つ金色の髪は、波琴の音がなくともたしかに楽を奏でたように思わせた。星のまたたきさえそのうつくしさに息を呑んだが、しかし長く近しい時を過ごしてきた友人は、見慣れたその容貌に今更瞠目することなどない。無論、その容姿がぐいと近づいておのれの頬に口付けを施したとしても、トゥアゴンは微塵も動じはしなかった。
軽く触れてすぐに離した唇をほころばせ、フィンロドは「こんばんは」と言った。「こんないい夜にきみの声が聴けて、とても嬉しいよ」
「――それは光栄だ」トゥアゴンは思案するように少しだけ目を細めたが、けっきょく彼がそうしたように軽く口付けを返した。額のほうがいくらか近かったが、きちんと身をかがめて頬へと。
ふうと香るあまい金の音。慣れすぎたやわらかな気配。唇を離すその瞬間に、ふふと嬉しそうな声が聞こえたとおもうと、ふわりと両腕が首にまわされた。
背を伸ばせばかんたんに剥がせる拘束に、けれど抗うことはせず、トゥアゴンは嘆息だけをひとつこぼす。それとは逆におおきく息を吸ったフィンロドは、ついで吹き出すようにくすくすと肩をふるわせはじめた。ずいぶんと上機嫌である。
「トゥアゴン」
「なに」
「なんでもないけれど、ただ、うれしいなぁと思ってね」
「そうか」
「そうとも。海は凪いでいるし、星は輝いているし、きみがここにいる。私はとてもうれしい」
「フィンロド」
「なに」
「私にはあまり、気の利いたせりふの持ち合わせがない」
「だいじょうぶ、きみにそんな期待はしていないよ」
「それはよかった」
冗談めかしたようすもなくそう言うトゥアゴンに、フィンロドはやはり嬉しそうに笑ってみせた。酔っているのだろうか、とふいに思う。ふだんから充分に酔狂ともいえる従兄弟は、さもその心を読んだかのようなタイミングで、ぎゅうと回した腕に力をこめた。ほう、と安堵するような吐息を耳元で感じたかと思うと、同時に腕がはなされる。
「きみは、ひとことだけでいい」
「ひとこと?」
「そう」
頷き、見慣れた従兄弟のうつくしい容姿が、いっそう笑みを浮かべて間近に寄った。触れるだけの口付けに音はなかったが、静かすぎる海のまえでは吐息のひとつすら耳に響いた。
にこにこと笑んでそのひとことを促すフィンロドに、トゥアゴンは口元をおおって苦い顔をした。彼の求める言葉を捜し、視線を逸らして思案する。
「…………ん、と」
ひうと風の切る音が鳴って、世界はゆるやかな静けさを増してゆく。星のまたたきの音すら耳にとどきそうな夜。
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