油断大敵とはよく言ったもので、常のとおりにうららかでなごやかな時間の繰り返しは誰の心にも弛緩を生む。一縷の隙が命取りになるような物騒さが日常のものであれば、と考えるのももちろん無意味な話で、実に平和なこの大地の上で安穏とした暮らしを送ってゆくかぎり、大抵のものごとは空を流れる雲のように動いてゆかねばならないし、動かしてゆかねばならない。そこに突如変異が発生したならば、やはり流れるように対処してゆかねばならないのだ。
 そんなわけで、流雲のごとくにいつもどおり外出しようとしたフィンゴンは、しかしそのいつもどおりの油断から、身動きが取れない状態にまで追い詰められてしまっていた。
 ちょっと難しくいえば捕縛された。
 なんとも人聞きの悪い物騒な単語ではあるが、事実捕まって縛られているのだからそのとおりなのだろう。いや、物質的な拘束を受けているわけではないけれど、
「――筆どころか眼すら動いていませんよ、兄上」
 浴びせられた冷たい視線は、精神的な面で間違いなくフィンゴンの動きを静止させていた。
「………………」
「………………」
 沈黙がひしひしと痛い。
 眼の前でどうにもならない威圧感をもって構えている弟の視線は、どう贔屓目にみても実兄へと向けてよろしい類のものではない。それはたとえるならば、脱獄犯を逃すまいと夜中見張り続ける監視者の眼である。
 どうにか幸いであると思うことが出来るのは唯一、彼の表情そのものに怒気の宿りが見られない点のみであった。どこか義務的な気配を感じさせる佇まいは、自らがいきり立っての行動ではないようすだった。当然、だからといって現状になんの変化がおきるわけでもないが。
 いやしかし、それなら説得さえ上手く行けば、早めに開放してもらえるかもしれない?
 問題はその説得にいまだかつて成功したためしがないという点である。語尾が上がり気味なのもそのせいだった。
 たらいまわしにされたか、やたら雑多な人材の署名と、そのたびに増加したとしか思えない『ついで』の用事が分厚く列を成す用紙。なんとなく理不尽な気配漂うそれらへとおとなしく視線を投じながら、頭のかたすみで聡く思考を動かす。ちらりと弟のようすを盗み見ると、彼はそれに応えるようにしてフィンゴンの向かう机上へ、
≪マイズロス禁止中≫
 と、また無駄に丁寧な文字で書かれた芸術作品と呼んで差し支えのなさそうな看板を、どでんと設置してくれた。
「……トゥアゴン」
「なんですか」
「これは、その、自作か?」
「いいえ、母上の作品です」
「……そうか……」
 それなら仕方ないかなぁ、と諦めかける気持ちを持ち上げて、フィンゴンはそろりとちいさく抵抗をこころみる。
「トゥアゴン」
「なんですか」
「良い天気だな」
「ええ。このところはまだとうぶん、良い天気らしいですよ」
「…………そうか」
「先を楽しく過ごすためにも、目前の光を目に馴染ませて、ご自分のなすべきことに集中することをおすすめします」
「…………そうだな」
 要約するとつまり、『今日中に終わらせるのは無理だろうけど、明後日も明々後日もあるんだしだいじょうぶ。がんばれ』ということだ。
 そう考えればべつにひどいことを言われているわけではないのに、どうしても虐められているような気持ちになるのは、たぶん自分がどこか決定的な点でこの弟に負けているからではなかろうかとフィンゴンは思った。具体的になにがどうとは言わないが。
 ――ああ、ちょっと涙が出そうだ。
「うう。マイズロスに会いたいなぁー」
「……泣かないでくださいよ、そんなことで」
 呆れを含んで投げられたひとことは、あまりに冷たい。
 無慈悲な弟は瞼を降ろして嘆息するが、しかし陽気な季節のうららかな昼下がり、誰かに逢いたいとただ願う感情を『そんなこと』呼ばわりとはあんまりではないか。フィンゴンは正論だが無感動なトゥアゴンを一瞥して、これ見よがしに辟易してみせた。
「そうは言うけれどな、おまえだってフィンロドと逢えないとさびしいだろう?」
「…………それは……」
 トゥアゴンが言葉をつぐんだ。どうやらこの角度を突くのは正解だったらしい。
 いくら正論と真面目が服を着て歩いているようなこの弟でも、自己に投影しての同情が出来ぬほど冷たくはない。むしろ情にほだされやすいタイプだということを、フィンゴンはよくよく知っていた。
 これは、勝てる。
 こんな己がどうこうせずとも最終的に父へと流れてゆくだけの書類プラスアルファになどバイバイして、母上にひとこと謝罪してから堂々とおうちを出てゆくのだ。
 しかたがないですね、と嘆息するトゥアゴンに、フィンゴンは勝利を確信したが、しかし弟の口から出たのは、彼の予想とは若干食い違い、また少しばかり斜め上をゆくものだった。
「それでは兄上」
 どこか冷然とした笑みを浮かべて、トゥアゴンが言った。
「耐えましょう、いっしょに」
「…………うん?」
 いっしょに?
 瞬間的に理解が届かず、ぎこちなく笑みを返してみてから、フィンゴンはおのれの短慮を呪った。ついでに、弟も同然にかわいがってきた従弟に心中で百回謝罪する。
≪フィンロド禁止中≫
 追加でどでんと置かれた急ごしらえの看板は、ノルドの技の巧なることを証明せんばかりの出来栄えであった。



 フィンゴルフィン邸の前にひとつ影があった。
 彼はひらりとマントをひるがえし、腕に抱えた土産の品とそれを受け取りよろこぶ親友の顔を思い浮かべては、うつくしい容姿に見合ったうつくしい声でるんらるんらとハミングなど口ずさむ。いつものとおりに上機嫌なその姿は見るものの多くをなごませたが、しかしその日にかぎっては残念ながら、彼に向けられるのは哀れみの視線のみであった。


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