猛然と振られた右手そのものが大きな音を立てたように思えた。
 少年は砕けて尚きらきらと囁くようなうつくしい音を響かせた欠片を呆然と眺め、そうしてそれを放った当人であるところの異母兄へと再び視線を動かして、やはり何も言えずに立ち尽くした。
 何故、とただひとことの問いかけすらも浮かばぬほど、頭の中は真っ白だった。彼にとって紛れもなく兄であるはずの目の前の男は、忌々しげにうつくしい顔を歪めて砕け散った作品を一瞥すると、吐き捨てるように言った。「その両の手に触れられたその時点で、あれは輝きを失った」
 言われた意味がわからずに、フィンゴルフィンはもう一度、もの言わぬ残骸となった小さな像を見た。小鳥の姿を模した光る細工。壊れものとなったそれは最後に一声鳴くように甲高い音を放って散ったが、今はいっそう輝きを放ってきらめいていた。元の姿に戻れぬと知りながら、それでもこれほどうつくしい物質で形を取り、私は長いときを生きてきたのだと微笑んでいるようだった。うつくしいものは、壊れた姿もうつくしいのだと、フィンゴルフィンは場違いなことを思った。
 とはいえ、義兄のいう輝きの損失の指すものごとを理解しえぬほど彼も幼くはなく、そしてそれに対しては怒りよりも悲しみよりも、何より先に、後悔がたった。
 父の大切な銀細工。触れて愛でることを許された自分。それを知った兄。
 わざわざ訪ねてまで、それを私の目の前で壊して見せたかったのだ。義兄はそれほどまでに怒り、悲しんだのだ。フィンゴルフィンは悔んだ。彼がその手で作り出した作品を、父の愛した小さな細い宝物を、彼のその手で壊させてしまった。
 嫌悪の感情には慣れていた。物心つくその前から、兄が自分を嫌っているのだと知っていた。理由よりも事実が目の前に横たわり、無条件に愛されてしかるべきフィンウェのふたり目の幼子は、腹違いの兄の視線によって疎まれることを肌に知った。
 けれど、それでも構わない、と彼は思っていたのだ。砕け散ったうつくしい破片にも、嫌悪に歪んだうつくしい表情にも、悔いはするが嘆きはしなかった。それは、耐えられぬ苦痛ではないから。
 義兄は冷たい視線を浴びせ、何も言わぬ少年へと静かに怒りをぶつけると、それ以上ひとことも伝えることなく彼の前を去った。
 それでも構わない、とフィンゴルフィンは思った。
 蔑まれるのは構わない。気に触るのならば怒鳴り、厭嫌し、詰れば良い。構わないから、どうか、どうか。
 どうか静寂だけは、訪れないで。
 感情のない静かな氷の日々だけは、訪れないで。




* * *




 赤く染まった港を前に、選択の余地はなかった。
 それでも一瞬躊躇した己の背を押したのはともに民を率いていた長男で、その懸命さにようやくフィンゴルフィンは我を取り戻し、思った。
 ああ、あそこには、兄がいる。
 選択の余地はない。もう一度確認したときには、躊躇いなど一欠けらも浮かばなかった。手にした剣は父の友の、弟の妻の、愛すべき同胞の血で汚れたが、それすらもしようのないことであるように、彼には思えた。自棄とも諦念とも違った色に心を奪われ、フィンゴルフィンは刃を振るい、敵を討った。あの日壊れた細工のように、うつくしい音を立てて剣が交じる。そこから生み出されたものは、けれど、あれのようにうつくしい姿では、決してなかった。

 静寂を先に連れて来たのは弟だった。
 彼は目前に晒された景色を瞼の外に隠すこともせず呆然と眺め、けれど誰を罵ることも嘆くこともしないまま立ち尽くしていた。
「喧騒であるか、沈黙であるか、そのどちらかでしかないのでしょうか」
 過去にそう言った弟の声を、フィンゴルフィンはよく覚えていた。乱れることなく穏やかな、父も母も兄も民もすべて、憎しみあうことなく過ごす日々を望むことはできぬのかと、彼は言って俯いた。それが可能だとも不可能だともフィンゴルフィンは答えられなかったが、その日が来れば良いと心に思った。
 諍いなどなく、静寂など訪れぬ、あたたかな幸福に包まれた日々を得ることができれば。


 ――それでも、先に静寂に浸ったのは、誰よりそれを望んだ弟だったのだ。


 同族との戦はノルドールの勝利で幕を下ろした。船を奪うための殺戮は、しかし我が兄らしいと言うほかない。それ以上の言葉を重ねるならば、きっとどう呟いたところで、罵りにしかならぬであろうから。
 戦を終えた義兄の表情はひどく晴やかであった。我を通すために駄々をこねた子どもが、ようやく意見の通ったことに満足を覚えたようすによく似ている。彼は不遜な笑みを浮かべ、フィンゴルフィンに向いた。腰抜けの異母弟が状況も知らずに掩護をするとは思いがたく、己の民だけで奪う予定であったのがいくらか手間が省けたと彼は言った。
 フィンゴルフィンは、それを褒詞と受け取った。







「――まだだ」
 遠く上がった煙を眺め、フィンゴルフィンは呟いた。
 船は奪われ、裏切り者は大海の彼方へと向かった。茫然と見遣るうちに上がった炎は、港の同胞が命をかけて守った宝を焼き、残されたものの希望を尽かせた。
 沈黙だ、と彼は思った。
 たとえ罵られても、剣を向けられても、血塗れた罪をともに被ることでそれが鎮まらぬのならば、それで構わないと思っていた。
 敵意で良いから、嘲りで構わないから。裏切られても、あなたの怒りを受け止めるから。
 愛せぬならば、せめて、その目を逸らさないで私を憎んで。
 母ではなく、弟ではなく、私を憎んで。
 切り離さないで。
「まだ、……まだ、失わぬ」
 同胞を殺し、弟を裏切り、都を捨て、神々に逆らい、兄に従ったのは何のためだ。冷たいアラマンの大地を踏み、フィンゴルフィンは己の恐れた静寂を思った。――まだだ。
 氷の日々はまだ訪れてはいない。このままでは、それすらも訪れない。
 彼のないこの地で、穏やかさも失われ、唯一の繋がりであった憎悪の念すら与えられず、いったい何がこの身に残るというのだ。恐れた静寂すらも曖昧なままで、いったい何に絶望すれば良い。何を思い、何を嘆き、何を惜しんで何を厭えば良い。
 答えはとうに決まっていた。フィンゴルフィンは己の民を見、声高に宣言する。
 氷の道を踏みしめる覚悟を背負い鋭い声は静寂を滑らかに切り裂いたが、彼の恐れた寂けさは、とうに大地を覆いこんでいた。


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