良くないな、という彼の言葉は、エレストールにとって正直どうでもよい意見だった。
 朗々ときらめくアナールの光は広がる大地に跳ね、間接的に眼球を刺激して散らばってゆく。誰もが一見に心を和ませる晴天は、草木を励ますかのようにここ数日続いていた。いっそのこと、雨を落とすのが面倒になったのかもしれない、とエレストールは思った。それほどまでに雲は浮かばず、青色とは己を指すのだと主張するかの如くに、青は空を渡っていた。
 こんな日くらい机を離れようとは思わないのか?
 天気と仕事に関連はない。雨の日が書類処理に適しているとでも思っているのなら、その考えは改めた方が良いだろう。明日行えば良いなどとは愚かしいにも程がある、今日の日ですら遅すぎるのだから。我らが今筆を持つものごとを、賢者はとうに昨日済ましている。
「手厳しいな」
「そのようにしつけられましたので」
 言うと、グロールフィンデルはくつくつと何か堪えるように笑い、そして言った。
「私は賢者と呼ばれるに相応しい者を知っているが、まさにきみの言うとおり、明日にも間に合うものごとを一縷の弛緩も許さずその日のうちに潰してしまわれる方だった」
 彼の指す人物の心当たりをふと思い、エレストールは筆を動かすのを止めて彼を見た。目があうと、彼は子どものように頬を緩め、けれど、と言った。「けれどそれは結局、明日にも間に合うものごとでしかないのだと、私は思うよ」
「明日に間に合うものごとは、今日に行っても何ら支障がないと、私は思います」
 目前の書類に視線を戻す。金色の髪が焼きついたか、瞬くと目蓋に眩さが散った。面倒な、とエレストールは思った。
「ならば、明日には間に合わないものごとを、今日行うというのはどうだろう」
「私が今こなしている書類は、明日には間に合わないかもしれないものごと以外の何ものでもありません」
 明日は何があるかわからないのだから、とエレストールが言うと、それはまったくその通りだ、とグロールフィンデルが返した。どこかおかしげに言うその声は、目蓋の金色と相俟ってエレストールの集中力を殺いだ。出て行ってくれないだろうか、とエレストールは思ったが、ここで怒鳴るのも彼に巻き込まれているようで気に食わない。
 その短気は損をする、と、里親に言われた言葉を思い出しながら、エレストールは溜め息をついた。
 良くないな、と彼はまた言った。
「何が良くないと?」
「色々だ。晴れの日の書類も、溜め息も、そうやって私のことを面倒そうにみるのも含めて、色々」グロールフィンデルは肩をすくめた。「私はきみといっしょに、この恩恵の下でお茶を楽しみたいと思っているのだけれどね」
 言われて、エレストールは再び筆を止めた。今度は彼を見ず、光の射す空を見る。
 私がこれほど爽やかに光を通すのは今日この一日のみだよ、と、青色が囁いていた。やはりエレストールは、面倒な、と思った。青空と目が合うと、どうも逃げられなくなるから嫌だ。
 グロールフィンデルを見ると、彼の目にあるふたつの空が同じように囁いていた。
 ――これだから。
「……あなたがお茶を用意してくださるのですよね?」
「当然だ。きみの淹れた茶は、どう励んでも私の口にはあわない」
 まるで悪鬼の吐息ように濃いのだから、とグロールフィンデルは言った。「或いは、今日の青の空のように自己主張が激しい」
 悪魔と空を並べるのか、とエレストールは眉をひそめ、それから、けれど青空が自己主張の激しいのは事実だ、と思った。
「今日の天候は、まるであなたのようですね」
 呟きに、グロールフィンデルが嬉しそうな顔をした理由は、エレストールにはわからなかった。


TOP