名は、と言った。
それが誰の声なのか一瞬わからずにぽかんとして、次に呼吸ひとつ分ほどの間を置いてからトゥアゴンはもう一度言った。名は。
「彼女の名は、何とおっしゃるのですか」
ほとんど無意識の下で訊ねたトゥアゴンのそのことばを聞いて、フィンゴンもやはり一瞬ぽかんと驚いたように目を丸めた。それから今にも笑い出しそうなとても嬉しそうな顔をすると、そうか、と何度か繰り返した。「なるほど、そうか。意外だな」
何を意外に思われているのかは、すぐに察しが付いた。
「……兄上」
にやにやといじわるげに笑う兄を軽く睨めると、彼はやはり笑みながら「からかうつもりはない」と言った。
「ただ、そうだな。うん、意外だ」
そういうつもりで訊ねたのではない。そう言おうと口を開いたが、結局なにも言わずにトゥアゴンは噤んだ。それを見て笑う兄の姿が、何故か妙に恨めしかった。
「エレンウェ、という」
柔らかく告げられたその名を吸って、トゥアゴンは再び彼女を見た。眩しい、金の髪。ノルドールの黄金華。
遠く見つけた光の姿に、聞いた名を繰り返す。
「エレンウェ」
だからたとえばその日を思い出すのは、こうしてふいに光を見つけた瞬間だった。
珍しくもない書斎から見た朝を知らせる光が、嘲笑うように眼球を刺激した。トゥアゴンは目を閉じる。一瞬だけ躊躇したあとにむりやり瞼を押し上げると、やはりむりやりに笑みを作った。作り笑顔は得意ではない。思うと、笑みはすぐに自嘲となった。
扉が開いた。
それが誰であるかをとうに知っているふうに、トゥアゴンは何も言わず訪問者に目をやった。それは日の光と同じように明るさを湛えるが、この地で見ることのないヴァンヤールの金とは異なる光だった。かの種族の黄金は柔らかく優雅であるが、彼女の黄金は華のように凛々しく、力強い。それはまさしく、『ノルドールの金の髪』なのだ。
黄金の華、と誰もが言った。
「やはり、こちらでしたのね」
彼女は黄色い花をひとつ、手にして笑んだ。「このところ、なにを熱心にお調べになっていますの?」
その問いをかけられるのは、何度目だろう。子のいたずらを知って笑う母のようなその態度に、彼女はすべて知っているのではないだろうかと、トゥアゴンは思っていた。思いながらも、少し、と言った。
彼女はそれ以上言及することなく、ふわりと笑った。そうして、黄色い花をひとつ、トゥアゴンに差し出す。
「私に?」
「ええ。おひとりだと、寂しいでしょう?」
言いながら、彼女は小さな花挿しを机の上に置き、それを挿した。指の先で花弁を撫で、大地から離れても項垂れることなく凛と張るその姿に、満足げに微笑む。彼女は黄金色の花が好きだった。
「――なにか、良いことがありました?」
やはりだ、とトゥアゴンは思った。彼女の問いは、どこかしら、見透かした上でのことばに聞こえる。そしてそれは、他者を圧するものでは決してない。
驚いた。
いつの間に、こんなにも。
「……気付かぬうちに、似るものだな」
「? なんのお話ですか?」
花の話だよ、とトゥアゴンは言った。彼女は少し首を傾げてから、ああ、と呟いた。続けて、めずらしい、と。
「お父さまが、ご自分からお母さまのお話をなさるなんて」
金の髪の娘にくすくすと笑われ、トゥアゴンは少し困ったように何度か瞬いた。なんとなくごまかすように、彼女の置いた花に触れる。どこか遠くを睨むように立つその花びらは、当然に抵抗などせず冷たい指先を受けた。ああ、これはもう生きていないのだとふいに感じて、小さなそれをいっそう愛しく思う。
眠った花のその名を、くちびるでそっとなぞった。
「エレンウェ」
言うと、彼女は静かに、はい、と答えた。
夕闇が世界を隠している。ここはどこだろう、とトゥアゴンは思った。これまで生きて、過ごしたこの土地は、いったいどこだったのだろう。これほどまでに音のない、閑寂の中に、彼女を置くことは出来るだろうかと、心中でひとり逡巡した。
それすら彼女は見えているようだった。この薄暗い靄の中にあってなお、見失うことなくまっすぐに寄越された視線に、トゥアゴンも返す。失ってはならぬと、静かに迷いを打ち消した。
「金華公は行くと決断なされた。――……そなたは、」
どうする。
祈るように向けたことばは、無風の中で彼女の長い金の睫毛を揺らした。
祈りは届くだろうか。拒む心と求める心、はたしてどちらが、より強く彼女に向かうのだろう。
私は、と彼女が言った。
「私は父の、金華宗主の娘であり、そしてトゥアゴン、あなたの妻です。――……怯みは致しません」
それは笑みながらも、どこかを強く睨むような声だった。凛と、細い身体に潜めた花の血が、彼女の中であまく溶けた蜜の香りを放つように簿靄を斬りつける。
届いた望みを噛締めながら、彼女の頬に指で触れた。
生きている。失ってはならない。
ともに、と言った。彼女はふわりと笑んで頷いた。
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