――兄に頂いた剣だ。
心中で確認するように呟いて、アングロドはゆっくりと息を吐いた。
小さな子ども用の、今となってみれば玩具のようなその剣を片手に持ち、刃に己の姿を見る。指先で切っ先に触れると、痒みにも似た痛みと赤い線が走った。
高揚している。
自覚して、苦笑する。心音はゆっくりと、けれど大きく鳴っていた。武者震いなど幾ら振りだろう。全身に血の巡る感覚に、アングロドは口の端が上がるのを感じていた。
木々の消滅、祖父の死、忌わしい誓言。決して緩やかではなかった川の流れに巻き込まれるままでいた愚かしさは、突如現れた滝に飲まれて一気に落ちた。這い上がることは不可能だろう。けれど、いつまでも滝壺でもがいている必要など何処にもない。
絶望的ともいえるこの状況を、アングロドは決して望んでなどいなかった。この地にいるかぎり与えられるだけの退屈な至福も、しかしこんな終結を迎えるのならば、ただ黙って与えられ続ければよかった。心から、そう、思う。
それでも高揚していた。鎧を纏って剣を持ち、この地を出、見知らぬ土地へ向かうそのことを、自分は間違いなく望んでいる。
幼少の頃初めて手にした剣を見つめながら、自分の心を確認し、アングロドはやはり少しだけ笑った。
−− f e t i s h −−
「本気なのか」
不安げに、けれどしっかりとそう言った声は、確かにアングロドの耳に届いていた。
間を置いてから振り返ると、やはり不安そうな表情で、オロドレスはもう一度本気かと問うてきた。アングロドは答えない。代わりに、手にした剣を鞘に戻して傍らに置く。
「……アングロド」
何故そんな声で名を呼ぶのだろう。
目の前の男が弟であることを疑っているかのような兄の声音に、アングロドは軽く眉を寄せた。不安よりも怯えの勝ったようなオロドレスの態度が不快で、次にもう一度その声で名を呼ばれる前にと、アングロドは口を開く。
「兄上は、今さら何を問われるのか」
藤色の目を軽く睨めると、ようやくオロドレスは不安そうに下がった眉を持ち上げた。この兄は妙に気の弱いところがあるが、しかしフィナルフィンの次子としての意識も高く、その分印象のギャップも激しい。とはいえ、今の彼を動かしているのは不審と怒りであるように、アングロドには見えた。
オロドレスは言う。
「私は、お前たちの判断を賢明だと思えない」
「……何か勘違いをしていらっしゃるようだ」
お前たち、と彼は言った。それは違う。それではまるで、アングロドが個人の意思ではなく、周囲の流れとともに己の道を定めたかのようではないか。
言うと、オロドレスは目を伏せた。どこか言い難そうに、けれどはっきり言う。
「……お前がそう言うのならば、私はそれを否定しはしないよ。けれど多くのものは、未知への好奇心と伯父上の激昂に突き動かされ、本当に目前にあるものを見失っているだろう」
「見失ったもの全てが、真実大切なものだとは限らない」
「そうなのかもしれない。けれど……」
呟いて、オロドレスは言葉を探すふうに口ごもった。
真剣に、ただ伝えたいことがあるのだろう。それが批難であろうと厭悪であろうと、真正面から向けられるものならアングロドはそれを受け止めるつもりだった。次兄の言葉、延いては父の言葉に、決定的な間違いを見出すことなど出来ないのだから。
己の判断が愚かしいことであるという自覚が、アングロドにはあった。心中に響く嘲笑は、堕落した神を筆頭にして自分たち全てに向けられている。
それでも、行こうと思った。
留まるという選択肢は、アングロドの中には欠片も用意されていなかったのだ。
愚かだと嘲笑われようと、無謀だと罵られようと、それを受け止めることはしても受け入れることは出来ない。理解は出来るが、従うことは出来なかった。
幾らかの沈黙の後、ようやくオロドレスは口を開いた。
「……私は、あの子たちが心配なんだ」
あの子たち、……――アイグノールと、ガラドリエル。
まだ年若い弟妹も、アングロドと同じように彼の地へ赴くと父母に伝えていた。母の涙など目に入らぬふうに、一切の迷いなく、ただ、行くと。そう告げた彼らはもう子どもではない。充分な決断力を持っている。
それでも、不安なのだろう。
「幾ら言葉で飾ろうとも、向かうのは戦場だ。あの子たちだけでも、ここに残すべきだと思う」
「……あのふたりが、聞く耳を持つとは思えないが」
大体、父も母も何度も言ったことだ。アングロドとて、はっきりと言葉にせずとも促しはした。この様子なら、オロドレスの言葉にも無視を決め込んだのだろう。
一度そうと決めたら誰の指図も受けはしない彼らの性格を悪いことだとは思わないが、しかしそれは不安でもある。
「……なあ、アングロド」
「兄上、言いたいことがあるのならはっきりとどうぞ」
アングロドの促しに、オロドレスは逡巡を見せた。また少し黙り込んでから、
「お前が行かなければ、あの子たちも留まるのでは?」
そう言った。
アングロドは自分が気の短い性分だとは思っていない。聖人的に長いというわけではないが、しかし人並み程度の理性と忍耐は持ち合わせているつもりだ。それでも時折、どういうわけかどうしようもなく爆発的に、自分でも驚くほど怒気を開放することがあった。
カッとなって、というわけではない。周囲から見てどうかは知らないが、少なくともアングロド自身は理論と理性に適った行動を起こしているつもりだ。
これは多分、気が短いのではなく、心が狭いのだろう。
傍らに置いた剣を鞘から抜き取り、切っ先を実兄に向けながら、アングロドはそんなことを考えていた。
古い剣だ。もう数えるのも億劫になるほど昔、まだ両手でこれを支えていた小さな己の小さな武器は、けれど先ほど指先の皮膚を裂いたように、まだ鋭利さを失ってはいない。過去には稽古のため幾度も交えたはずのノルドールの技巧の賜物を、誰かに差向けることも久しかった。
とはいえ、アングロドとて何もそれを突き立てようと向けたわけではない。オロドレスがどう受け取ったかはわからないが、アングロドはその片腕ほどもない小さな剣を、文字通り兄の目前に晒しただけだ。
「――……これをどなたから頂いたか、兄上はお忘れか?」
自分で意識したよりも幾分か低い声で、アングロドは問うた。
一直線に向けた視線は逸らされることなく受け止められたが、返答はない。兄の双眸に見えたのは、戸惑いよりも揺らぎを見せる意思だった。
そうだ、とアングロドは思う。
力を与え、その振るい方を教えたのは誰だ。身を守ること、誰かを傷つけること、触れれば赤が流れることを、我らに教えたのは誰だった?
手の中の柄が、その先の刃が、同意を示す。その通り。お前は間違っていない。お前はその力を返さなくてはならない。与えたものに従え。誰を裏切ることがあっても、見捨てることがあっても、殺すことがあっても、お前が信ずるべきは父でも母でも兄でもない。お前は無力ではない、お前は弱くはない。お前のその力は誰のために在る、誰のために使う、誰のために死ぬ? それは父でも母でも兄でもない。お前は間違っていない。お前はその力を返さなくてはならない。
「我らに剣を与え、振るい方を教えたのは、父上でも母上でも、兄上でもない」
光を失った空気を震わせると、オロドレスは少しだけ目を細めて、そうか、と呟いた。
同意ではないその承諾に、少しだけ安堵して、少しだけ悲しくなった。
* * *
「アングロド兄上!」
ひょこりと顔を出した父譲りの端整な顔は、この夕闇に似合わないほどの明るさをもってアングロドの名を呼んだ。
この弟の口から出れば、どんなものでも花の名に聞こえるな。
なんとなくそう思い、それなら長兄の口から零れたものは光となり、次兄の口から零れれば優しさとなるのだろうと考えた。妹と母の声は、水か氷になるだろう。そして父の声は、虹のように色を映す。
ならば自分は、何だろう。
取り留めのない思考は、再び呼ばれた名に遮られた。
「兄上、フィンロド兄上が呼んでいらっしゃいますよ」
アイグノールは言いながら、アングロドの手元を覗き込んだ。「持って行かれるのですか?」と問う。
「何?」
「フィンゴン兄様から頂いた剣でしょう、それ。向こうへ持って行かれるのですか?」
向こう、と言った彼の表情は、一縷の不安も猜疑も抱いていないように見えた。アングロドは少し笑う。この弟の悪いところは、自分の思考に一切の疑念を抱かないところだ。
もっと疑え、とアングロドは思う。向かうことに罪悪を覚えないのであれば、彼は彼の地に行くべきではない。
「最後だ」
「最後?」
独り言のような呟きにも、アイグノールは訊ね返す。アングロドは呼吸ひとつぶんの間を置いてから、弟に最後の警告をした。
どれだけ母が悲しんでいるか、どれだけ父が苦しんでいるか、ここでじっとしていることがどれだけ安全で、ここに残ることをどれだけ重んじるべきか。
最後だ、とアングロドはもう一度言った。
「行けばこの地にはないものを得られるだろう。けれど、それ以上に失うものもあるかもしれない」
それでも、行くのか。
言うと彼は、揺れた鈴の音を耳にしたかのように、うっすらと微笑んだ。
空を映した海の色は深い。薄い瞼から覗いたふたつの深海はアングロドの顔を覗き込んで、何かを確認するかのように一度だけ瞬いた。
「そうかもしれません。けれど失うことよりも得ることよりも、私はそれ以上に、守りたいと思うのですよ」
言いながらアイグノールは、アングロドの手元へ手を伸ばす。静かに鞘に納まったままの剣に触れると、静かな声で「行きます」と呟いた。
「だって私も兄上と同じように、フィンゴン兄様のことが大好きなのですから」
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