知らない感情があった。
それは背後から両の胸を貫通して羽交い絞め、その状態のままでいっときたりとも己の傍を離れはしなかったというのに、言葉として伝えられるまでまるで気が付きはしなかった。違和感すらも覚えなかった。その感情は熱がじんわりと鉄を溶かしてゆくように胸部に穴をあけ、我がもの顔で素肌の上を這い回り、この灰の目にまで到達してふたつしかないそれを鈍らせていたのだろうと思う。あるいは、己の目蓋をきつく押し留めて見ぬように指し示したのはこの忌わしい感情そのものではなく、理性だとか呼ばれる心の止め具の仕業であったのかもしれない。ならば悪意をもって差し止められたわけではない認識も、多少は意味のあるものだったのだろう。
この期に及んでなおそんなどうでもよいことを考える自分がひどく滑稽だ。そのおかしさに笑みを浮かべるわけにもゆかず、トゥアゴンは代わりに、口を開いた。
「――兄の必要とした命です」
震えはしなかったが、少しかすれた声だった。乾いた言葉は砂のように、手放した途端にさらさらと崩れて消滅してゆく。消えるな、と思った。消えないで、散らないで、この声を伝えてはくれないか。叶うのならばどうか、小さくとも鋭利な刃のように、彼の肌に突き刺さって。
そうしてほんの少しで良い。どうか彼を殺してくれ。
* * *
太陽も月も星も浮かばぬ灰色に濁った空の下で、彼はまるで目当てのひとがそこに来るのをあらかじめ知っていたように座り込んでいた。冷たい風と夕闇をしのぐよう燈された薪を前に小さく口ずさむ音はどこか哀しげで、けれど名残を惜しむふうでなく、遠くから見守るようにやさしく風に流される。白く滑らかな肌が炎の光を映して、彼の整った容姿を称えるように強調するのを、トゥアゴンはなんとなくぼんやりと眺めた。
「きみの悪いところを、私は誰よりもよく知っている」
歌の続きのようにそう言って、フィンロドは視線だけでトゥアゴンを見た。
「心の声をそのまま言葉にして伝えるべきだなんて、そんなことは思っていないよ。けれどそこまで顔に出しておいて本音を言わないなんて、それは少し、卑怯だ」
「……好きで顔に出しているわけじゃ、ない」
「それはそうだろうね。故意にそんな顔のできるほど器用なきみを、私は知らない」
フィンロドは茶化すようすなくそう言って、目前を飛ぶ火の粉を眺めやった。それは炎と呼ぶにはあまりに柔らかい小さな灯火の中に、次に続ける言葉を探しているように見えた。
彼がそれを見つける前に、トゥアゴンが言った。
「殺さぬのかと、問われた」
絶望に浸された赤の髪から覗く、唯一色を映す青の眸。ふたつのそれは穏やかにトゥアゴンの姿を納めて、そして言ったのだ。その殺意の切っ先は、今向けなければ後悔すると。
言うとフィンロドは、まったくその通りだろうね、と首肯した。「そうしてきみは、それに何て返した?」
「……道理がない、と言った」
あなたは兄の必要とした命だ。私に殺せる道理がない。
反芻するに、我ながら面白みのない回答であった。誰を面白がらせるために生きているわけでもないが、はたしてもう少しでも聞き良い言葉を発することは出来なかったものだろうか。
それには彼も同一の意見だったらしい。「とてもきみらしい、つまらない見解だね」そんな失礼なことをさらりと言ってのけると、フィンロドは立ち上がってトゥアゴンに歩み寄った。若干上向きになる視線をまっすぐに向けると、
「ねえ、きみは今、自分がどれだけ怖い顔をしているか気づいている?」
言って撫ぜるようにトゥアゴンの頬に触れた。
彼がそう言うのならば、自分は今よほどひどい顔をしているのだろう。負の感情を認めようとしない点は、彼の言う『きみの悪いところ』に含まれるのだろうか。
彼がそう問う前に、フィンロドは手を放し、大地へ視線をやるように目を伏せた。空気に混じって溶けるような、小さな声で、言う。
「そして私も、きみと変わらぬほど怖い思いを抱いている」
呟きは、誰かにそれを確認するかのようだった。
ふとかぶりを振るように金の髪が揺れ、薄暗い中で黄金の音を放つ。気付けば、顔を上げた彼は、仮面を外したかのように晴やかな表情を浮かばせていた。
空をおおった薄暗い密雲が退き、突如として太陽が顔を覗かせたかのようにすら思える。予告なく訪れた眩しさにトゥアゴンは不意をつかれて瞠目したが、フィンロドはそんなもの意に介さぬふうに、さてと、と言って踵を返した。
ふわりと空を歩いた金の髪に、どこへ向かうのかと訊ねると、彼はにこやかに答えた。
「きみがさっき行って、詰りそこなった者のところへ」
一瞬置いて言葉の意味を理解するその前に、再び背を向けたフィンロドの腕を、トゥアゴンは慌てて掴んでいた。掴んだは良いが、何と言うべきか解らなかった。少しためらった後、何をしに? と訊ねる。
彼は腕を振り解こうとはしなかった。
「もちろん見舞いだよ。きみの言うとおり、フィンゴンが救った命だもの。私にだって多少は、看病をする義務と権利があるとは思わない?」
それに、とフィンロドは続けた。
「何度か引っ叩かないと、気が済まないんだ」
振り向いた彼に笑顔はなかったが、けれど暗くそまった歪みの感情もそこにはなかった。深い青色の目には、先ほど彼の眺めた火の粉が宿っているように見える。飛び散る熱さに、トゥアゴンは彼と同じように言葉を探した。
やはり先に口を開いたのは彼の方で、トゥアゴンはひそかに、言葉は探さぬほうが強い、と思った。フィンロドが言う。
「彼が裏切りを好んだりしないことは、私だってよく知っているよ。きみにそんな馬鹿なことを訊ねたのも、それ以上に言葉が見つからなかったのだろうと思う。どうせフィンゴンに対してだって似たようなことを言ったに決まっているのだから」
断定的にそう言うと、フィンロドは自分の言葉に同意するように何度か頷いて見せた。
「けれど私は、そういう謝罪は受け付けない。代わりに、彼の望むように断罪することにするよ」
「…………」トゥアゴンは閉口し、彼の腕を掴んだまま幾度か思考を巡らせた。「……それがつまり、きみの言う、『何度か引っ叩く』か?」
その通り、とフィンロドは満足気に笑んだ。
「黙って許すことは出来ないと思わない? 罵ることはあまりに容易いし、ならば私は、頬でも張ってそれで終わりにする」
「終わりに?」
「そう。それで、許す」
すべてを、と彼は言った。
この瞬く合間に過ぎ去った多くの変事も、彼らのためにこうむった犠牲も、すべて。
少しの静かな間があった。それはしかし沈黙と呼ぶほど空気の冷めたものではなく、互いが自分の心を確認し、先を続けるための静けさに思えた。何より、橙に空気を揺らす薪の炎が口を閉ざすことをしない。トゥアゴンは息を吐いた。
それを合図とするように、フィンロドがくすりと笑った。
きみが出来ないその分も、と彼が囁いた気がした。
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