南に行こう、とフィンロドが言った。「いい加減、北は山ばかりで飽きて来たんだ」
きみが来てくれて良かった、と言う彼は、つまり誰の文句も聞かず遊びに出かける口実ができたと言っているようだった。トゥアゴンは苦笑する。
「どこへでも、きみの好きなように」
言うと、保護者から許しを与えられた子のように、フィンロドは微笑んだ。では決まりだね、と軽快に言う。
今度の旅は、トゥアゴンが言い出したものだった。
彼は珍しく手紙も出さずに、ほとんど突然と言って問題ないほど唐突にやって来くると、やはり今思いついたかのようなタイミングで「少し散歩に行こう」とフィンロドを誘った。そして、フィンロドにとって散歩と旅は等号でくくられて然るべきものである。
「……私は、そう長く不在にすると言ってきてはいないのだが」
「ああ、そうだね。ちゃんと手紙を届けさせないと」
ヴィンヤマールへと文の行くのを見届けてから、彼らは旅立った。フィンロドはトゥアゴンに突然の訪問の理由を訊ねることはしなかったし、そもそも彼がやって来たこと自体、さほど驚いたようすは見せなかった。
ただ歩き始めていくらか経ったあるときに、彼はぽつりと言葉を漏らした。
「私たちは、いったいどれくらいの間、こうして目的のない旅を続けられるだろう」
その視線の先には湖があり、草木があり、澄んだ空気があり、暖かな光があった。フィンロドは続ける。「きみが来てくれて良かった、トゥアゴン」
その小さな声を聞きながら、トゥアゴンは、南へ行こう、と言った彼の声を思い出していた。
目的を持たぬ逍遥は目的の通りに南へ向かい、流れる水に沿って道を作った。あてなく彷徨うわけでなく、ただ時間だけを肌に感じて道を進み、ときおり休んでまた道を行く。旅よりは散歩のようだ、とトゥアゴンが言い、それがきみの望んだものじゃないか、とフィンロドは笑った。
気付いたのは星のせいだった。
ふと視線を上げると薄い明けの空が広がっていた。冷えた空気を肌に受け、夢を見た、と気付く。
微睡みの名残は微塵もなかった。ただ一瞬だけ、心に作られた空白に、黒い景色が紛れ込んだのだけ解った。ひどく冷えた指先をこすり、感覚を確かめるようにぎゅうと拳を握る。そうしなければ、そこからすべて逃げて行くような気がした。
これは逃してはならぬものだ。
フィンロドは漠然とそう判断し、それから急に理解した。
理解してから、惑った。
ふつふつと足場のなくなってゆくような不安。気が遠くなるような焦燥。ここがどこであったのかすら見失い、彼はひとり静かに狼狽した。
隣で眠る友を見る。視線を合図とするように、瞼に隠された眼球がゆっくりと姿を見せた。
そこに見えた動揺は、己の姿を映したものだろう。
鏡のように現れた惑いを誤魔化すため、ふと微笑む。この言い知れぬ不安を彼に伝えることは出来なかった。目の前のひとに夢の闇を思わせることなど、してはならぬと思った。けれど、
「先ほども言ったけれど」
仄かに白んだ空を見上げ、囁く川の声を聞くように再び一度瞼を降ろしてから、フィンロドは言った。
「――私たちがこのように、他愛のない言葉を分け合っていられるのは、そう長くないのかもしれないね」
応えは不要であると絶つように、フィンロドは立ち上がった。川辺へとゆっくり歩を進め、そうして振り返ることなく言う。「これほど短い夏の夜を、きみと過ごす日がくるなんて思わなかった」
苦笑交じりの声音に、トゥアゴンが小さく「ああ」と返した。それが肯定であるのか、それとも感嘆であったのか、判断はつかなかった。
ただ、思う。
この不安は、彼にも伝わるだろうか。
木漏れ日の下を、歩いていた。
緑の葉が風に揺れるたび、光の輪が色と位置を変える。香るのは草木と、大地と、水と光。それらに誘われるように歩を進めながら、けれど、トゥアゴンは言う。「そろそろ戻ろうか」
フィンロドはちらりと友の顔を見、ふふと笑んだ。そのおかしげなようすに、いったいなにかと訊ねると、彼は「別に」とやはり笑みを浮かべた。
「ただちょうど、そろそろきみが痺れを切らす頃ではないかと思ったところだったんだ」
目的のない旅にいくらもかけていられるほど、きみは気が長くない、と付け足す。トゥアゴンはばつが悪そうに眉を寄せ、それから、きみのように呑気ではないだけだ、と言った。
水の音は近かった。緑は嘘のように輝いていた。光の色は、夢の声を掻き消すほど暖かかった。ここに、と彼らは口をそろえて言う。ここにあれば夢は昨暁の残骸となる。首筋を撫でる感情を聞きながら、トゥアゴンはそれを遮った。帰ろう、と言う。
フィンロドは目を細め、ちいさく頷いた。そうだね、と言うその声が聞こえる前に、トゥアゴンは手を伸ばした。
揺るがぬ大樹のごとくに佇む彼の、その存在を確かめるように、背後から抱きしめる。
「…………」然程の力をこめることなくゆるりと回された腕の中で、フィンロドは驚いたようすなく目を伏せて言った。「名残惜しい?」
茶化すようなその声に、トゥアゴンは至極真面目に、どうだろう、と返した。それよりも穏やかに、続ける。「どちらにしても、どうせまたすぐに顔を合わせることになる」
抱きしめる力は変わらない。回した腕は抱擁でも拘束でもなく、ただ目の前の友の立つ場所だけを確認するように触れていた。背と胸の触れさえせぬそれは、こちらを向くなと押し留めているようでもあった。
そうだろうね、とフィンロドが言った。きっとまた、すぐに私はきみに会いに行く、と。「そうしてそのときには、やはり私たちは別れなくてはならないんだ。互いの場所に戻らなければならない」
「そう、だから」トゥアゴンは唇にだけ笑みを浮かべた。「帰ろう、フィンロド」
最後かもしれない。
過ぎった言葉を口にすることは出来なかった。
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