薄ぼんやりと開けた視界に映ったのは、どこまでも整ったきれいな顔だった。
 朝目覚めてすぐに与えられるひとつの景色。こうして覚醒を迎えるのは、ひどく久しぶりのような気がした。
 ――――まるでこどものころみたいだ。
 思ってから、トゥアゴンは眼前に広がる金の髪を指で掬った。あの頃に比べて随分と伸びたそれは、ゆるく波を描いてシーツの上を流れる。心地よい手触りに嬉しくなってそれを撫でると、彼の藍色の目がこちらを見て苦笑した。
「おはよう、トゥアゴン」
 ああ、朝なのだった。
 起きなければと思うけれど、体が上手く動かない。
 大体、何故彼がここにいるのだろう。上手く記憶を辿ることが出来ずに、トゥアゴンは少し呻くような声を漏らした。昨夜、は、どうだったろう。酒を飲んだことは覚えていた。それ以降は、覚えていなかった。
 彼がともにいたのならそれを覚えていないわけがないと思ったけれど、そう断言できる自信も無い。そのくらい、本当に曖昧な記憶しか残っていないのだ。ひょっとしたら忘れてしまっているだけで、一緒に飲んで、一緒に眠ってしまったのかもしれない。或いはいつものように朝早くからやってきた彼が、勝手に寝台に上がりこんできただけなのかも。
 どちらも充分にありえるが、とりあえず服は着ているのでそれ以上のことはなかっただろう。
 瞼を下ろしながらそんなことを考える。
 結局、気にしないでおこうという結論に達した。別に誰に咎められるわけでもないし、何より心地がよかった。
「――――……も少し」
 自分に向かって何か言ってくる彼の声は聞こえたが、内容まで意識が追いつかなくて、トゥアゴンはそれらを無視して呟いた。何がもう少しなのかは自分でも良く解らなかった。
 目の前にあった頭を引き寄せて抱えると、彼はとくに抵抗することなく腕の中に納まった。暖かい。
「まぁ、良いか」
 聞こえた声は、自分のものだったのか、それとも彼のものだったのか。
 良く解らなかった。まぁ良いか、と、思った。


* * *



 これはすごい。
 もう随分陽も昇ったというのに、まだシーツに包まったまま起きる気配を見せない幼馴染に、フィンロドは少し驚いて目を丸めた。
 珍しいこともあるものだ。既にひとつの土地を治める主としての立場を持っている彼は、まるでそれ自体が仕事であるかのように、朝は誰よりも早く朝議の場に現れるのだと聞く。実際にその場に居合わせたことは残念ながらなかったが、彼の性格を考えれば確かに否定できなかった。
 昔から妙な義務感をもって背筋を伸ばしている彼は、ある一部の者の前を除けばばかみたいに真面目を装っていたし――もっとも、根っこのほうがやはり真面目だからこそそういうことも出来るのだろうけれど――、事実『寝坊で遅刻』よりも『小難しい書物に没頭しすぎて遅刻』の方が遥かに多かった。どちらにしても時間に遅れること自体はよくある出来事なのだが、如何せんエルフと言う種族は根本的な部分で気が長い。当然ながら各々の性格に委ねられる部分も多々あったが、しかし時間の取り決め自体が曖昧なもので、『金の木が輝きだしてその光をもう一度銀の木と共有するまでには』だとか『あの西の花が香りを届ける頃に』だとか、どうもそれ自体が気の長いものであったりするので、多少約束の時間に遅れたくらいならば微笑んで許すのが礼儀である。当然、例外もあったが。
 さて、その例外だ。
 ここヴィンヤマールでは毎朝、主を中心とした会議が行われるらしい。らしい、というのは、フィンロドは己の土地にそのような仕来りを設けなかったからであり、先にも言ったとおりにその議自体を見学したことがなかったからなのだが、とにかくこの館の主たるトゥアゴンの命として、朝は太陽が昇って数刻の内に議を執り行うと、そういうものがあった。とはいえそう堅苦しいものではなく、余程困窮した急を要する議題でもない限りは、朝食の前の雑談のようなものだと彼は言う。たまに朝食も一緒になるそうだ。
 しかし、現在はもう火の乙女は空の真上へ向かい始めているのにもかかわらず、その議を定めた館の主は未だ寝台の上で仰向けに転がったままなのである。微かに聞こえてくる穏やかな寝息に、フィンロドは後ろ手に扉を閉めて苦笑した。
 窓際に置かれた面積だけは広いテーブルの上にはいつものように大量の書物と、そしてそれほど強くない酒の瓶が空になっておいてあった。酒に弱い彼ではないが、誰だって飲めば自然と眠りは深くなる。それでも面目という二文字さえ心中にあれば平気で目を覚ますことが出来るのが彼の特技のはずなのだが、本当に珍しい。
 今朝早く、本来ならば丁度会議の行われているはずの時刻にこの館へ足を踏み入れたフィンロドは、いったい何があったのかと動揺を隠せない彼の臣下らに出迎えられた。主の信に厚い武将のふたりから許可を貰って自ら彼の寝室に赴いてきたのだが、それは正解だったようだ。すっかり夢路に支配されてしまっている従兄弟の顔を覗き込んで、フィンロドは鬼の首でも取ったようににんまりと笑んだ。
「こんなだらしない恰好、見せらんないよねぇ」
 一切飾りのない黒髪を白いシーツに散らばらせ、おそらく着替えることなく眠ってしまったのだろう長衣は着乱れている。四肢を投げ打って眠りに沈むその姿は場合によっては色気を感じないでもなかったが、それを思う以前に、驚いてひっくり返ってしまう者のほうが多いだろう。
 模範的な君主として知性を振りまく普段が普段だ。智慧ある者として名高く、且つ戦においても抜群の指揮を揮う。冷静だが決して冷たさを感じさせない彼を尊敬し、どこか美化して見るものはフィンロドの臣下にも少なくなく、彼らは総じて極端なまでにトゥアゴンを褒めちぎった。上司にしたい王族公子アンケートを取れば一位を掻っ攫う可能性も低くはないだろうと思うが、しかしまぁ、彼の実態はコレである。
 大衆の目に触れないところとなれば、衣服に気を配ることもしなければ食事も忘れて読書に没頭し、挙句は客人、即ちフィンロドが遊びに来てもまったく無視し、下手をすれば眉を寄せて邪魔だと示してくる。
 フィンロドに言わせれば彼は、模範的な君主どころかただの読書馬鹿なのだった。

「……トゥアゴーン」
 彼の名を呟いて、寝台の脇に腰を下ろす。指先で頬を撫でてやると、くすぐったいのか、彼は小さく身じろいだ。
 さて、寝ているようなら起こして来て下さい、と頼まれたのだが、しかし熟睡した彼の目を覚ますとなると相当の努力が必要なのではないだろうか。むしろフィンロドが声をかけるよりも、彼を信頼する一家臣にでも頼んだ方が余程効率が良い。大切な部下に主としてありえない醜態を見られたとあっては、彼は慌てて飛び起きて、数週間は自己嫌悪に陥ることだろう。
 それはそれで見てみたい気もしたが、しかしフィンロドがそうしなかったのは、単純に優越の問題である。或いは、独占欲と称するのも良いかもしれない。
 心なし開いている彼の唇に己のそれを重ねる。彼がこの程度では起きないことくらい解っていた。
 案の定、心地よさ気に寝息をたてたままのトゥアゴンを見下ろして、フィンロドは微笑んだ。続けて額に口付けを落としてから、彼の隣に転がってしまう。
 さて、どうしようか。
 早く起こさなければ誰か着てしまうのだろうけれど、しかしこの状態も勿体ない。
 ――――まるでこどものころみたいだ。
 思いながらもう一度名前を呼ぶと、思ったよりあっさりと彼はその瞼を開いた。薄く、本当に薄く、覗いた灰色の目に自分が映って、フィンロドは苦笑する。もう起きてしまった。
「おはよう、トゥアゴン」
 言うと、まだ完全に覚醒していないのか、彼は身じろぎながら言葉にならない声を漏らした。無意識にだろうか、右手はフィンロドの髪を梳いて、そのままぱたりと落ちてしまう。
 もう一度眠るつもりだ。
 そうはさせるものかとその手を拾い、ついでに向かい合わせていた顔を近づけて額をつき合わせると、フィンロドは意識して呆れたような声を出した。
「いい加減起きないと、いつもきみの言う『面目』だとか『立場』だとかを失墜させることになりかねないよ」
「んー……」
「聞いている? トゥーアゴーン?」
 耳元で大きめに声をかけるが、それすらも聞こえていないのか、トゥアゴンは何の反応も見せないまままた瞼を下ろしてしまった。
 これは本当に、すごい。
 ここまで睡眠に縋りつこうとするとは、彼の歩いている夢路はいったいどれほど至福に満ちたものなのだろう。
「も少し」、と呟く声が聞こえたかと思うと、彼は幸福そうな寝顔を見せて、フィンロドの頭を掴んで自分の元に抱き寄せた。まるで抱き枕か何かのように、両腕で抱え込まれてしまう。
「…………」
 どうしよう。
 こうやって抱きかかえられてしまって、抵抗できるわけがない。それは腕の力やそういったものではなく、気持ちの問題だ。
 彼の腕の中にきれいに納まってしまう自分の小柄さだとか、こんな状態を彼の部下に見られたらそれこそ面目次第失墜であるだとか、否やそんなことは自分には関係ないのだから別に気にしなくても良いかだとか、優秀な双璧が何かしらフォローを入れるだろうだとか、何だか様々な事柄を頭の中に回らせながら、それでも結局、彼の身体に擦り寄る。
 頭を使うのは彼の仕事であって、その彼が何も考えずに寝こけているのだ。問題ない。
 要するに、
「……まぁ、良いか」
 これがフィンロドの結論だった。


* * *



 一刻後。
 ふたり仲良く夢に浸ってしまっている主と客人を前に、グロールフィンデルとエクセリオンは並んで嘆息していた。
「だから言ったろ、絶対フィンロドさまじゃ無理だって」
「仕方ないだろう。本人が自分が行くのだといって聞かなかったのだから」
 ごろごろと未だ起きる気配を見せない彼らに、ふたりは呆れたふうにそう言って顔を見合わせた。
 どうする?
 放っとく。
 視線だけで会話をすると、片方は嘆息し、片方は苦笑することでタイミングを合わせたかのように、優秀な双璧は踵を返してその部屋を出た。


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