フィンロドはその場に突っ立ったまま、じっと彼を見ていた。「座らないの?」という声に、「立って」と返す。
「は?」
「良いから、立って、トゥアゴン」
怪訝そうに眉を寄せた従兄弟の腕を引っ張って無理矢理に立たせると、低い位置にあった彼の顔が一気に自分を通り越して、そして止まった。一体何なのだ、という顔をしている彼は、まだきちんと立ったわけではない。直立すれば、この差はもっと開いてしまうに違いなかった。
フィンロドは溜め息をついて、そして正面から、彼に抱きついた。
何てことだろう。
「……フィンロド?」
「伸びてる」
突然の抱擁にも驚いたふうのないトゥアゴンは、フィンロドの台詞を聞いて「ああ」と返す。彼がいったい何に驚き、何に嘆いているのか理解できたからだろう。
ほんの数日だ。ほんの数日で、なんでこんなにも、彼は身長が伸びているのだ。
どうしてこんなにも、差が開いてしまっているのだ。
「成長期だろうって、父上は言っていたけれど……」
「それにしたっていきなり伸びすぎだよ。ついこの間まで、私と大差なかったじゃないか」
「大差ないことはなかったろう? 随分前から、私の方が背は高かった」
「それでも、これじゃああんまりだ」
現に、首に手を回して抱きつくことも難しくなっているではないか。腕を離すと、トゥアゴンは「うーん」と曖昧に笑った。
近付けば、もう、彼にはフィンロドの頭のてっぺんまで見えてしまっているのではないだろうか。こっちは顎を上げて、見上げることしか出来ないというのに。
不公平だ、と思った。
フィンロドの方が良く食べるし、運動もするというのに、昔からずっと彼を見上げてばかりなのだ。それは、不公平である。
「フィンロドだって伸びているじゃないか」
「けれど、きみの方が伸びている」
「それは個人差というものだよ。どうしようもない」
その通りだった。
けれど、その通りだからこそ、つまらないのだ。
「きみのようにたくさん眠れば、背が伸びるのかな」
「……それは嫌味かい?」
「違うよ、真剣に考えているんだ。こうやって」
踵を上げて、つま先で立つ。それでもまだ少し足りない背丈に、彼の頬を掴んで寄せた。
そのまま、唇を近づける。
「――口付けをするのも、一苦労じゃないか」
呟くと、トゥアゴンは少し黙って考えるふうにした。視線を落として、息を吐く。
少し躊躇うようにしてようやく口を開こうとした彼に、フィンロドは先回って声を出した。「ならばしなければ良いとか言ったら、怒るからね」
「…………」
図星だったのか。
さらに黙ってしまったトゥアゴンは、誤魔化すようにフィンロドの額に手を当てた。近付いたままだった顔を押し退けるように離そうとするその手を、反対に掴んで引き寄せる。
ぐいと力を込めた手を離さないまま、灰色の目を半ば睨むようにして見上げると、フィンロドは言った。
「すぐに追い越して見せるから」
「……、それは……」大真面目に言い切ったフィンロドに、トゥアゴンは少し固まってから、ゆっくり溶けるように苦笑った。「無理じゃないかな」
とてもあっさり否定されてしまった。
どうして? と訊ねるのも何か違う気がして、フィンロドは肩を落とした。確かに、それは、無理なような気がしていたからだ。自分の背が伸びれば、きっと彼の背がもっと伸びる。その逓増が変わるとは思えなかった。
想像する未来は、やはり今と、変わらないのだ。
変わるわけがなかった。
「きっときみは、もっと大きくなってしまうんだ」
「そう?」
「そうさ。そのうちに伯父上だって抜かしてしまって、一族中から見上げられるようになってしまう」
トゥアゴンは「まさか」と言って、楽しそうに笑った。「そんなことになったら、私は兄上に睨まれてしまう」
しかし、トゥアゴンがじきに実兄の背を越してしまうのは、おそらく間違いないだろう。自分の勘の良さを誰よりも理解しているフィンロドは、彼に合わせて微笑むに止めた。まさか既にフィンロドが、『兄の威厳をいかに死守するか』といった内容の相談を、彼の兄から受けているなどとは思ってもいないのだろうと思う。
「まぁ、そこまではいかないとしても」
長椅子に腰を下ろして、トゥアゴンは呑気にもそう言った。手で招いて、フィンロドにも座るように薦めると、少し笑いを含んだ声を零す。
「私は、私がきみよりも背が高くて良かったと、そう思うよ」
「何故?」
隣に掛けながら訊ねると、トゥアゴンは言葉を選ぶふうに間を置いて、
「きみの姿が、よく見えるから」
そう言った。
「……それはなに? きみより背の低い私は、きみの姿がちゃんと見えていないとでも?」
聞こえた言葉を聞こえたまま捉える必要はなかったが、しかし彼の言おうとしている意味が良く解らなくて。
機嫌を損ねてそう言うと、トゥアゴンは慌てて否定した。言い方が悪かったかな、と口ごもる。
「ええと、きみは昔、私の姿が見えなくても構わないと言ったけれど」
「そんなことを? 私が?」
「覚えていないだろうけれどね」
覚えがなかった。
いったいどうしてそんなことを口走ったのだろう。確かに、よくひとりでどこかへ出かけるのは自分の方で、つまり、姿を消しやすいのは自分の方で、彼の視界から離れてしまうのは自分の方だけれど、それは彼がそこにいると解っているからで。
若干混乱したフィンロドに、トゥアゴンは再び、困ったふうに「そうじゃなくて」と言う。
「要は、私はきみとは違うんだってこと」
「そりゃあ、そうだろうね」
「そう。私は、きみの姿が見えたほうが良い。――背が伸びれば、その分、きみを探しやすいと思うんだ」
あの空へ近付けば、きみがどこかへ向かっても、その姿を見ることが出来る。
きみがどこから帰って来ても、誰より早く、それを見つけることが出来る。
トゥアゴンは少し歌うように言って、曖昧に笑った。「目を離すと、何を仕出かすかわからないから」と余計なことまで付け足した彼に、フィンロドも声に出して笑う。
「なら私は、きみを目印にすれば良いんだね」
「目印?」
「うん。どれだけきみの側を離れて歩き回って遠くへ行っても、その場所からきみを見つけて、必ず戻ってくるよ」
今までもずっとそうしてきたのだ。これからもずっと、変わらない。
微笑みながらフィンロドは立ち上がって、「けれどね」と続けた。立ち上がって、トゥアゴンを見下ろす。
疑問符を浮かべながら見上げてくる彼を見、こうでもしなければこの角度の彼を楽しめないのかと思うと、やはり少し悔しかった。
「やっぱり背を伸ばす努力はしてみようかと思うんだ」
真剣にそう言ったフィンロドに、トゥアゴンは苦笑するだけで何もいわなかった。
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