背後から小さな吐息と一緒に、見つけた、という声を聞いて、フィンロドは額に張り付いていた自分の髪を右手で払いながら振り向いた。
 冷たい水滴とそれの奏でる音が視界を遮っている。もう一度、今度は瞼の辺りに垂れた雫を手の甲で拭って少しだけ目を細めると、煩いくらいに大地をノックする雨粒の向こう側に、ひとつ影を見つけた。
 彼は不服気な表情で、少し歩を早めてこちらに向かって来る。そのようすを確認できるほどに距離が縮まるのを待ってから、フィンロドは彼に背を向けて、再び歩き出した。
 背後からは呆れたように名前を呼ぶ彼の声が聞こえて、いつもの溜め息が聞こえて、それから、諦めたように何かを呟く声が聞こえた。
 それはすぐに雨の音に消えて、今度はゆっくりと、彼の足音が聞こえてくる。少し離れてついてくる気配に、雨に掻き消されてしまうと知りながらも、フィンロドは小さく口ずさんでいた。


「きみのための詩が、またひとつ増えたよ」
 歌い続けて、歩き続けて、都を離れてたどり着いた木の下で、フィンロドはそう言った。
 雨は止まない。後退を始めて幾らもたった風は弱まるどころか次第に強さを増して、いかにも風の王の心痛を見るようだ。溶けるように泣き続ける雲の姿に、いったい何を諍うことがあるのかと不思議に思いながら、雨粒を遮る樹木に背中を預けた。
 何ひとつの文句も口にせずついて来た従兄弟に目をやると、彼は少しだけ眉をしかめて、「それは光栄だ」、と諦めたふうに呟いていた。続けて、「それで?」と問う。「結局、なにが目的なのかな。聡明なる我が従兄弟殿は」
「雨宿りというやつだね。このひどい雨風を凌ぐために、大地の子らの助けを借りようと思って」
「これだけ濡れて、いまさら雨宿りもないだろう。……それにだいたい、私が言っているのはそういうことじゃない」
 ではどういうことだい、と訊ねることはしなかった。これ以上茶化すと、せっかく連れ出した彼の背中を見ることになる。
「目的、ときみは言ったけれど」雫の滴る髪をかきあげながら、フィンロドは言った。「特にこれといってそれらしい考えもなかったから、答えるのは難しいな」
「そんなことだろうと思った」
 憮然と言ったトゥアゴンに、フィンロドは、なら聞かなければ良いのに、と笑う。
 予想と確信、確認と証明。そんな遠まわしなことをしなくても、彼が思ったことならばきっとそうなのだろうし、自分が思ったことならばきっとそうなのだ。石橋を叩いて渡るよりもまず、いかに吊り橋を安全に渡りきるかを考える方が利口ではないか。
 言うと彼は、こんな雨の日に釣り橋を渡ろうとは誰も思わない、ともっともらしく呟いた。
 まったくそのとおりだ、とフィンロドも思った。
「散歩をしていたら、突然降ってきてね。そうしたらふいにきみの顔が見たくなって、けれど私はずぶ濡れだし、雨はやまないし、なんだかとてもおかしな気分になったんだ」
「それが、わざわざ探させるような真似をした理由かい?」
「理由といえるほど、正当な根拠も道理もないけれどね」
 要は、ただ、何となくなのだ。
 白く降りそそぐ雨脚に木の光が映る。視界の隅を飾った小さな虹に雨下の和らぐ気配を感じ、フィンロドは伸びをしながらそう言った。
「その何となくのおかげで、本当ならお茶を楽しんでいるはずだった私も、こんなになっているのだけど」
 濡れて重くなった衣服に顔をしかめて言ったトゥアゴンに、フィンロドは少し首を傾げた。「お茶の約束があったの?」
 もしそうなら悪いことをした。彼に、ではなく、彼と談笑を楽しむ予定だった者に、だ。思って訊ねると、トゥアゴンは一層渋面を作って、
「そう思うのならあとで一緒に謝ってほしいな。今頃多分、父上が被害を被っている」
 そう言うともう何度目かわからない溜め息を吐いた。
「……お詫びに母上を連れて行くよ」
 機嫌を損ねた彼の母を宥めるのに何より最適なのは、己の母である。フィンロドが言うと、トゥアゴンは冗談を言うふうでなく「助かるよ」と言った。「約束に遅れるとしか伝えていないから、帰ったら当分は埋め合わせに付き合わないと」
 フィンロドは苦笑しか出来なかった。
「きみは本当に、することが唐突だ」
「チャームポイントだと思って受け止めてよ」
「……それに図々しい」
 遠慮なくそう言うと、トゥアゴンは瞼を降ろした。雨の音に耳を澄ますように黙り込んだ彼の、濡れた頬に手を伸ばす。冷え切った指先で触れて尚冷たいと感じる肌は、けれど唐突なそれにも慣れたふうに抵抗せず、沈黙で接触を許した。
 輪郭を撫でると、トゥアゴンは睫毛にかかった水滴を払うように幾度か瞼を上下させてから、ゆっくり溜め息をついた。
「フィンロド」
「心配した?」
 微かな声で名を呼んだ彼に、間を与えずそう問い掛け、フィンロドは微笑む。
 雨粒は視界を遮らなかった。
「…………した」
 不服気な表情とともに寄越された回答は短く、けれどはっきりとその意味を伝えて空気を震わす。それから彼はどこか具合が悪そうに遠くを見てから、きみが無茶をするのは今に始まったことではないのにね、と苦笑してみせた。


 収まりはじめた風が促すように雨脚を遠ざけ、濁った空は次第に青を取り戻す。あまりに遅い雨宿りは、しばらくするとただの葉元の休息になっていた。弱まった雨の最後の一粒を確認してから、木の葉の傘に礼を言う。
 濡れた身体は、歩いていればそのうち乾くだろう。
 そんな適当な、という彼の声を無視して手を引くと、フィンロドは濡れた土の上を歩き始めた。
 久しぶりに連れ出せたというのに、このまま返す道理がない。さも当然のように笑みを浮かべたフィンロドに、トゥアゴンはほんの少しだけ逡巡をみせてから、けれど最後には諦めたか、或いはどうでも良くなったのか、
 どこか朗らかな声で、先の雨に消えた彼の歌声を乞うた。


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