ノルドールの女性にしては小柄で華奢な体つきをしているが、彼女は確かに父や祖父に繋がる血の持ち主なのだろうと思う。
 女性らしい長い睫毛と大きな眼球の中で静かに揺れ、薄い瞼の下でも決して光を絶えさせはしないのだろうその灰の混じった藍色の瞳と、そしてやはりノルドールには珍しい金色の髪を差し引いても、普段の穏やかな微笑からふっと視線を鋭くさせることの出来るその様子は、義伯父や伯父より寧ろ自分の家の血筋に近いものを感じさせる。
 美しさにおいては誰もが息を飲むフィナルフィン王家ではあるが、それを確立させているのは何もヴァンヤールの柔和な顔立ちとテレリの軽快な姿のみではない。祖父王フィンウェがそうであるように、或いは公子フェアノールの娶った女性、ネアダネルがそうであるように、たおやかさと同時に存在する意志というのは極めて何処までも、美しいものだ。力強い眼光は、時として優美な笑みよりも強くひとを惹きつける。父の美しさに不可欠であるのは間違いなくその暖かさを損なわぬ『意志』であるとフィンロドは思っていたし、己自身もまたそれに劣らぬ強固さを得ているという自覚があった。
 その、同じ強さを、彼女の中にも確かに見つけられる。王室に仕える武家の血を継ぐ女性としての誇りと、それとはまた違う、しなやかで力強い視線。悪意とは異なるその感情を幾度となく受け、その度にフィンロドは思う。この者の強さは、確かに彼に必要なのだろうと。

 ただ、それが期待である可能性を否定することは出来なかったけれど。

 つまり、彼が彼女を選んだのは、自分と重なるものを見出したからではないかという、期待。
 もしもそれがその通りならば、まったくばかなものだと彼を笑い飛ばすことも、或いは一層大切に想うことも出来たろう。しかしそのことを彼に直接訊ねることが出来るほど、フィンロドは無粋ではなかった。単純に、恐れと期待の入り混じった不安定な感情を彼にぶつけることを躊躇したと言い換えることも可能だが、何にせよ、まったく意味のない問い掛けである事は明らかだったからだ。
 しかしそれでも、その予想を抱いたのはフィンロドひとりではなかったらしい。
「あなたがいると不安になるの」
 彼女はフィンロドを目の前にして堂々とそう言ってのけたし、確かにその感情は己と共通するところがあった。他でもない彼女自身が、フィンロドのそれと似通った感情をもってして、彼の隣に立つ者としての己の意味を不安に思っているのだ。その事実を、ひどくおかしく思う。
 そんなものを抱える必要などまったくないのに、自分も彼女も、何故わざわざ両手で包み込んで離さないのだろう。それを消し去れば、きっと嫌な感情を心中に溜めることなく、彼の傍らにいられるというのに。
 何を思って、自ら背負い込むのだろう。

「私だって、そうだよ」
 その日はじめて、フィンロドは彼女の視線に言葉を返した。否、落とした、と言うべきだろうか。本来ならキャッチボールであるはずの会話を、最初から放棄したようなものだ。フィンロドの声はグローブからボールを垂直に地面に手放したように口から零れおちただけで、彼女に向けて放ったものでは、決してなかった。
 それでも、彼女は振り仰ぐ。浮かべた微笑みは自嘲的だった。
「あなたがいなければ良いと思ったことは、実はいちどもないの」
 それも、まったく同じだった。フィンロドとて彼女がいなければと思ったことは、自覚のある限りでは一度もない。理由もおそらく同じだろう。そういう点で、自分と彼女の思考は酷似している。
 たいせつなものが同じだから。
「痛みは常に、必要だと思うから」
「痛み?」
「そう」彼女は頷いて、更に笑んだ。「あなたは私にとって、痛み以外の何ものでもありませんもの」
 心に痛みを忘れてはならない。
 誰にともなく呟くその声に、フィンロドは確かに同感する。共鳴と言い換えることも可能であろうその感覚に、少しだけ笑った。彼女も笑っていた。
 互いを痛みと自覚しながら、それでもこうして顔を合わせれば、どちらからともなく会話が始まってしまう。それは言葉ではなく、単純に同感者という区分でのシンパシーに過ぎなかった。
 ある意味では恋人同士のそれに近いのかもしれないが、こうして笑み合う自分たちのことを勘違いする者は、依然誰ひとりとして存在しない。むしろ互い間の空気の凍結は、他者にも充分伝わるものらしく、困惑の目で見られることの方が圧倒的に多かった。それは彼にしても例外ではなく、フィンロドと彼女の起こす所謂『険悪』なムードに一番頭を悩ませているのは、他でもない彼自身であることは明らかで。
 それを、少し喜んでいることは秘密である。
「だとしたら、トゥアゴンは癒し、かな」
 くすりと笑って彼の名を出せば、一層笑みが冷たくなる。それでも、返って来たのは同意だった。




* * *



「ねぇトゥアゴン」
 彼は相変わらず呑気に机へ向かっていたし、フィンロドも相変わらず平然とその部屋を訪れて、まるで自宅でそうするようにソファに寝そべっていた。
 名前を呼ぶ、彼は振り返らない。それも相変わらずのことで、「なに?」と声だけで返って来た返事に、フィンロドは少し、考える。
 ここへ来るまでに彼女と冷戦を交わしてきたことは、出来れば彼には伝えたくなかった。
「それ、いつ頃終わる?」
「もうじき終わると思うけど」
 曖昧に返答してから、トゥアゴンは手を止めて振り返った。「急ぎの用だった?」
 もし急ぎの用ならばこんなふうにだらだらしていない、と思ったが、前科があるので黙っておく。それを否定と受け取ってもう一度机に向かったトゥアゴンの背中に、フィンロドはやはり少し考える間を置いてから、
「婚約する時は、まず誰よりも早く私に知らせてくれるよね?」
 言うと、タイミング悪くも紅茶を口に含んだところらしかったトゥアゴンは、思いっきり噎せた。ごほごほとやる彼に近付き丸めた背中を撫でてやると、まるでおかしなものでも見るような目で――尚且つそれに涙を溜めて――彼はフィンロドを見遣る。
「……いったい、どういう風の吹き回しだ?」
「うーん、ちょっと気になったというか、聞いておこうかと思って」
 で、どうなの? と返答を促せば彼は本当に意外そうにして、それでもあまり間を取らずに、当然だろうとハッキリ言った。
「伯父上よりも先にだよ?」
「え、うん」
「フィンゴンよりも先に」
「……解った」
「誰よりも先に、私に教えてね」
「…………フィンロド?」
「きみ以外の者の口からは、絶対に聞かないから」
「フィンロド、なにか」
 疑念を口にしようとした彼にフィンロドはにこりと笑んで、人差し指でそれを留めた。
「特に、あの姫君の口からは、絶対に聞かないから」
 聡明な従兄弟は一瞬だけ目を丸めてから、己の恋人と幼馴染の間に深く横たわった亀裂を思ったか、眉間に手を当てて深く嘆息した。


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