「あーあ」と口にして、フィンロドは両手で頬杖をついた。
目の前に散らかった紙の束が全部弟の顔になって、「サボってないでとっとと判を押してください」と言っているように見えてきた。そろそろ休憩しないと、この幻覚は一生ついてまわって来るに違いない。思いながらもう一度、「あーあ」と言う。
見張り役のオロドレスには、絶対に逃げ出さない、という条件でひとりにしてもらった。相変わらず真面目でお人よしで学習しない弟だが、それは彼の長所だろうと思うので、それに免じて今日は大人しくしていようと決めている。そもそも、どうしたって自分を通さなければ動かない書類なのだ。今逃げたところで必ず追いかけてくるのだから、さっさと終らせてしまった方が良い。
と、思ったのだが。
意外と辛いのだ、これが。
『兄上に足りないのは、興味のない事柄へ向ける集中力というものですよ』
そう言ったのは一番下の弟だったろうか。好きな物事には抜群の感性と集中力を発揮するのに、興味をそそられないとなると、まったく集中できなくなる。確かにその通りだと思ったが、それはみんな同じなのではないだろうか。誰だって、好きなことは頑張れるものである。
言えば彼は、「普通、百パーセントとはいかなくとも、ある程度の集中力を無理矢理にでも搾り出すものですよ。それが兄上は、本当に空っぽでいらっしゃる。だから、私はいつも思うのです。書類だの何だの、そういう地味な仕事は、兄上には向きませんよ」そう言って、それをオロドレス兄上は解っていらっしゃらない、と愚痴るように唇を尖らせた。
彼が解っているかいないかはさておいて、しかしこれはどうしようもないことのように思える。向いていないからやめときます、では通じない事象というのは多々あるのだ。
自分に言い聞かせるようにそう思いフィンロドは再び紙束を手に取るが、しかし既に切れまくっている集中力は字列を目で追うだけで、なかなか脳には入ってこない。いつになっても終る気配を見せないのは、やはり自分が問題なのか。
「…………あーあ」
随分前から、頭に浮かんではぐるぐると思考の邪魔をしてくる言葉がある。わざわざ口にする必要はなかったが、フィンロドは思わず、呟いた。
「トゥアゴンに会いたいなぁー」
こうやって書類と睨めっこをしていると、どうも彼を思い出して仕方がない。ついに自分まで、彼へそんなイメージを定着させてしまったのかと思うと、少し複雑な気持ちになった。
幼少の頃はそれこそ毎日のように遊んでいたというのに、最近はめっきり逢えなくなった。別に仲が悪くなったわけではないし、時折手紙も届くから、まぁ、そういうものなのだろうと思う。実の兄弟だって、住む場所が遠くなれば顔を合わせる機会が減るものだし、成人の式や妹の生誕が重なったり、宴の指揮が回って来たりとお互い忙しかったのだ。納得はしていた。しかし。
「それでも顔が見たいといったら、怒られるかな」
そもそも、顔なら見たのだ。ほんの数日前に。
祖父の屋敷にある、長い長い回廊。そこで彼とすれ違ったそのときに、顔なら、見た。
トゥアゴンもフィンロドも、それぞれ家族とともに歩いていた。まっすぐに続く館内を歩いて、互いに気付くと微笑み、父親同士が口を開いて幾らかの会話を交わす。道端でばったり会ったわけではなかったから本当に社交的な言葉だけのやりとりで、それでなくとも久しぶりに顔をあわせたというのに、彼の名を呼ぶことすらも出来ないまま別れた。
すれ違って、少しして、
立ち止まったのは、フィンロドの方だった。
歩を止めて、振り返って、彼を見る。
歩いてゆく彼の背中しか見えなくて、苦笑した。不思議と、声をかけようという気にはならなかった。
「――……あーあ」
溜め息しか出てこなかった。
そもそも、どうして声をかけなかったのだろう。別に家族がいるからだとか、祖父の館内だからだとか、そういうことは気にしなくてもよかったはずだ。
立ち止まって、振り返って、歩いてゆく彼の背に、ひとこと言えば良かった。
彼の名を呼べば良かったのだ。
そうすれば少なくとも、今、こんな気分にはならなかったはずだ。思いながらフィンロドは、椅子の背に身体を押し付けて天井を仰ぐ。後悔するのは得意ではなかった。
これを終らせたら、堂々と遊びに行ってやろう。そう心に決めて、ようやくもう一度書類を手に取る。いつになれば終るのかは見当もつかなかったが、まぁどうにかなるだろう。
集中力はなくても、根気ならあるつもりだった。
* * *
祖父の屋敷を後にして、トゥアゴンはひとつ、息を吐いた。
まさかあんなところで顔をあわせるとは思わなかったのだ。よく考えれば、可能性はまったくないわけではなかったが、しかし予想外だった。偶然と言うのは恐ろしくて、面白いと思う。
彼も驚いた顔をしていた。そして、嬉しそうな顔をしていた。恐らく自分もそうだったろう。
久しぶりに顔をあわせたというのに、ひとつも会話が出来なかったのは少し、残念だった。
「……立ち止まれば、よかったかな」
立ち止まって、振り返って、歩いてゆく彼の背に、ひとこと言えば良かった。
思ってから、トゥアゴンは苦笑した。言うべきひとことが見つからないことに気付いたのだ。顔を見られただけで、元気にしているのを確認できただけで、良かったと思うことにする。
少し落ち着いたら、今度は自分から逢いに行こう。
思いながら彼の名を一度呟いて、トゥアゴンは再び歩を進めた。
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