「夢をみていた」
 そう言って彼はにこりと笑んだ。
 普段なら丁寧に編みこまれている金色の髪は、珍しく散らばって風に流れている。青い空と馴染んだその金色に降られて、トゥアゴンは身体を起こさないまま問いかけた。
「……眠っていたのかい?」
「うん」
 機嫌良く隣で歌を紡いでいると思っていたが、器用にも思考を沈ませての歌声だったらしい。けろりと返って来た肯定に、無意識に嘆息した。
 青と白に拒まれることなく輝きを放つ火の乙女は、丁度空の中心でラウレリンの果実を示していた。眩しさに目を細めると、光の降注がれた木々の歓ぶ声が聞こえる。
 時の流れは決して穏やかさだけを生み出すものではなかったが、しかし、心地良い。
 大地に預けた背中から届く、地上の声。それに重なるようにして、柔らかな声音が耳元をくすぐった。
「とても素敵な夢だったんだ。きみは見なかった?」
「残念だけれど、私は眠りに落ちてはいなかったから」
「そう。きみと共有できたのならきっと、もっと素敵なものになったに違いないのに」
 残念だな、と呟いて、それでも尚口を開こうとする彼に、トゥアゴンは視線でそれを遮った。
 イルモの紡ぐ夢幻の回廊は、時として先見を与えて未来を手繰り寄せる。それは言葉として発してしまえば行き場を失い、宙に分散してその可能性を薄れさせてしまうことになるとされた。夢路を知る者はその景色を他者に伝えることをしてはならない。それは掟ではなく、刻み込まれた判断だ。
 トゥアゴンの無言の言葉に、そのくらい解っているよ、とでも言いたげに、彼はまるで幼子のように拗ねた表情を見せた。しかしそれも一瞬のことで、気が付けばまた微笑んで、
「続きでも見ようかな」
 そう言ってごろんと横になった。
「続き?」
「そう、もうひと眠りしようかと思って。今度はきみも眠れば良いよ、そうすれば、同じ道を行ける」
「歌いながら?」
「当然」
 言ってくすくすと笑う彼の声を聞きながら、トゥアゴンは口を閉ざした。
 躊躇う。
「どうかした?」
 眩しい声に顔を上げると、深い海の色はじっとこちらを見ていた。記憶のままに微笑んでいる優しい目に、トゥアゴンは同じように微笑した。

 暖かな、蒼と、光の世界。至福に溢れた此岸での語らい。円に縁取られた幸福。闇に囚われた、球形の世界。
 矮小だが、恐れる心には限りなく安息を与える。しかし、ただ、それだけの。

 彼の頬に触れて、トゥアゴンはその暖かさに口元を綻ばせた。気付いている、と呟く。
「なにが?」
「知っているんだ。……もう、気付いた」
「だから、なにがだい?」
 この夢に気付いている。
 この青い夢に気付いているのだ。
 彼の名を呼ぼうと口を開くが、しかし届かないまま、吐息と化して空気に溶けた。
 夢を口にしてはならない。夢の名を呼んではならない。確認するまでもなく脳裏に広がるその甘い水は、誰に定められたわけでもなく声帯を鈍らせる。

 ああ、けれど一度。
 ただ一度だけ、彼の名を呼んで、そうして抱きしめることが出来れば。
 きっと目を覚ますことも容易なのに。




* * *




 普段机に向かう通りの長衣姿で柔らかな椅子に腰掛けた彼は、どこか宙に彷徨わせていた視線を、ようやく一箇所にやった。
 ああ、目を覚まされたのだな、と思う。
 このエルフという種族は、瞼を降ろさずとも睡眠を取ることが出来る。彼らを知らぬ者はそれを訝しがるが、実際に目にしてみればそれがどういうものなのか理解するだろう。
 彼らは美しい。
 夢想に近い夢路の逍遥は、薄い瞼の開閉に関わらずその光を際立たせる。沈ませた意識の彷徨う果ては人の子には到達のない場所にあるのだろうと思わせ、いつにも増して儚げで精霊的ともいえる表情には、微酔すら覚えた。
 黒い瞳がゆっくりと焦点を絞るその様を眺め、トゥオルは片腕に抱いた書物の束を彼の手元にやった。幾度か瞬きながら無言で受け取った彼に、「お疲れですか」と訊ねると、ゆるゆると首が振られる。
「夢をみていた」
 トゥアゴンはまだどこか微睡んだ様子で、トゥオルに視線を合わせることなく呟いた。
「……人の子には、」それがこちらに向けられた言葉でないと知りつつも、トゥオルは彼に返す。「悪い夢は友に託せという教えがあります」
 悪夢は、目覚めてすぐに誰かに語れば現実には起こらないのだという。反対に、良夢は口にせず心に留めることで己に蓄積してゆくと。
 そう告げたトゥオルに、トゥアゴンは声に出して笑ってみせた。
「何故悪夢だと思う?」
「悲しそうな顔を、なさっていましたから」
 真顔で答えると、やはりおかしそうにトゥアゴンは微笑む。まるで悪戯を見つかった幼子が、反省の色を映さず見せる笑みのように。
「悪夢は、口にしなければ現実になるだろうか」
 誰にともなくそう言うと、何かを確認するようにゆっくりと瞼を降ろした。


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