音が聞こえた。
燦々と、水の当たる音だ。大地に当たって跳ね返る。空気を散らして、輝きを増す。
室内にいても響きは聞こえた。まるで踊るように硝子窓に触れ、楽しげに帰ってゆくその水滴たちを空の涙というのであれば、それは歓びに涙しているに違いない。これだけ暖かな音を奏でるのだから。
瞼を下ろして、壁に身体を預ける。降りしきる雨音が館に響いて、なんとも心地が良かった。
静かだ。
眠りを誘うほどの穏やかな静寂に、トゥアゴンはそれを断ることをせず、夢の淵に足を踏み入れようとしていた。さらさらと聞こえる恩寵を子守唄にゆっくりと意識を沈ませる。が、しかし、安眠に邪魔はつきものである。
まるでタイミングを測ったかのように、雨音を破ってノックが響いた。
「トゥアゴンさま、いらっしゃいますか?」
「――――……」
無視する、というわけにはいかないだろう。
苦笑しながら、いるよ、と言う。失礼しますと入ってきた少年は、声に聞こえた通り、このところ常に傍においている武人の御子だった。
どういった経緯でか成人にも達しない彼を自分の元に置くことになったときは、父に仕える武官らの中でも特に秀でた泉家のその宗主の跡取り息子であるという彼を、一体どうして自分などがと戸惑ったものだが、今は互いに随分打ち解けてきた。あまり好んで武術の鍛錬を行わないトゥアゴンは、小姓のように館に詰めるのは彼の腕を鈍らせることになるのではないかと不安を持っていたりもするのだが、しかし真面目で丁寧で何事もそつなくこなす良い子なので、好んで傍に付かせている。
相変わらずの落ち着いた様子で入室してきた彼はトゥアゴンを確認し、「お客様が」と言った。
「フィンロドさまが見えてらっしゃいます」
「フィンロドが?」
相変わらず、何の前触れもない訪問だった。
「わかった」言いながら、トゥアゴンは立ち上がる。「すぐに行くと伝えてくれ」
普段ならまるで己の住居のように上がりこんでくる彼は、しかしどういうわけか、今日は彼を通してきた。客間で兄でも捕まえたのだろうか。
思いながら、トゥアゴンは鏡面に向き合った。髪を結うのは得意ではないが、侍女を呼ぶのも面倒で、仕方なく自分で櫛を通す。
鏡の向こうで、少し困った様子の少年が見えた。
「どうかしたか?」
「いえ、それが……」とても言い難そうに、彼は言う。「――屋敷を濡らすのは申し訳がないからと、トゥアゴンさまを呼ぶように申し付かったのですが」
濡らす?
首を傾げてから思い出して、トゥアゴンは窓を見た。雨が降っていたのだ。
風は先ほどより幾分か強くなり、雨粒も量を増したように見える。豪雨というほどではなかったが、しかし、これは……。
「お止め申し上げたのですが、どうしても外で待つのだと仰って……」
「…………あの、ばか」
無意識に呟いて、立ち上がる。多少の風雨も気にすることなく、ふらふらとほっつきまわっている彼の姿が目に浮かんで、頭を抱えたい気分になった。
恐らく、突然やって来て無茶な注文をつけてきた来訪者に戸惑ったであろう少年に、トゥアゴンは申し訳なく思いながら口を開く。
「すまない、エクセリオン。この後母上とお茶の約束をしていたのだけど、所用あって遅れると伝えてほしい」
それだけ言って、トゥアゴンは慌しく自室を後にした。手にした髪留で簡単に髪を縛りながら、廊を進んでゆく。
途中、帰宅したばかりの様子の父と出くわした。
「トゥアゴン? おい、何処へ……」
「お帰りなさいませ、父上。この雨の中、遠征からのご帰宅ご苦労様です。ゆっくり身体を温めて休憩なさって下さい。では」
早口で上辺だけの挨拶を述べることでそのまま通り過ぎようとしたトゥアゴンは、しかしあっさり、腕を掴まれて歩を止められた。
振り返り、「どうかなさいましたか」と訊ねる。我ながら白々しいと思った。
「どうかも何も、何処へ行くつもりだ? 雨脚は随分強まってきた。出掛けるのなら日を改めた方が……」
「あの、父上、屋敷の外にフィンロドがいたでしょう?」
彼を捕まえて浴槽へ放り込むだけだと説明すると、しかし彼は首を横に振った。見ていない、と言う。
父の目に映らなかったか、それとも待ち草臥れて移動を開始したか。
可能性も何も、確実に後者だった。
「…………捜しに行ってきます」
半ば諦めたように呟くと、息子の外出を引き止めるのが不可能と悟ったか、フィンゴルフィンは己の掛けていた雨着を、頭からトゥアゴンに被せた。
* * *
「トゥアゴンは、行ってしまったの?」
この家の者で唯一、金色の髪を輝かせる彼女は、少し残念そうにそう言って、フィンゴルフィンと並んで息子を遠目に見た。
手にしたタオルで、雨に濡れた夫の髪を撫でるように拭いてゆく。
「せっかく、久しぶりにお茶を一緒できると思ったのに」
「私が付き合うよ」
「あら、あなたじゃ駄目よ。トゥアゴンだから、楽しみにしていたんですもの」
あっさりと拒否されて、フィンゴルフィンは苦笑した。彼女は昔から紅茶や読書が好きで、ヴァンヤールの女性らしく、武術や馬よりも歌を好んだ。三人の子供たちの中で唯一、自分と同じように好んで室内にいるトゥアゴンをひどく可愛がるのは、まぁ当然と言える気がする。
「あの子ってば何かにつけてフィンロドフィンロドって、私よりも彼を優先するんですもの。ひどいわ」
「お前だって、何かとエアルウェンを優先させるじゃないか。この間も……」
「殿方の嫉妬はみっともなくてよ、あなた」
にこりと笑んでそういう彼女は、トゥアゴンよりもむしろ、まだ幼い長女を思い出させた。
「本当に仲の良いこと。トゥアゴンがあんなにも嬉しそうにしているところなんて、なかなか見られはしませんもの」
「嬉しそう?」
雨の中呼び出されて、嬉しそうとはどういうことだろう。
訊ねようとしたフィンゴルフィンに、彼女は先回りして「あら」と言った。首を傾げて夫を見上げ、ひょっとして、と続ける。
「まさかあなた、トゥアゴンが彼に振り回されているとでも思っていらっしゃるの? ご自分の甥のわがままに、あの子が言いなりになっているとでも?」
「まさか」
どう見たって、お互い好きで付き合っている。トゥアゴンはああ見えて意志が強いし、フィンロドにしたって聡い子だ。間違っても、一方が一方的に強要した友情をもって連んでいるとは思えない。
思えないが、しかし、雨の中をやってくるというのはどうだろうか。身体が冷えてしまうのではないだろうか。大体、訊ねてきていなくなるとはどういうことだろう。
「……足でも滑らせて転ばなければ良いが」
「まぁ、過剰な心配は親ばかの元ですわ。あの子だって、もう子どもじゃありませんもの」
ふふ、と微笑んで、彼女は立ち上がった。紅茶でも淹れてくれるのだろう。先ほどは断られたが、やはり相手がいないとなると寂しいものだ。冷えた身体にも嬉しい。
予想通りにお茶の用意を始めた彼女は、しかし突然、今思い出したかのように「そういえば」と言った。ピタリと、その手が止まる。
「フィンゴンも先ほど出掛けてしまったのよね。嫌だわ、兄弟揃って雨の中、変なところばかり似てしまって」
「…………」
誰に似たのかしらねぇ、と、言外に伝わってくる言葉に、フィンゴルフィンは冷や汗をかいた。
この雨の中、わざわざ遠く父の元へ訪ねたのは、当然召し出しがあったからである。父王に呼ばれれば、幾らマンウェの風が冷たく吹き荒れようとも馳せ参ずるのは息子として、ノルドール公子として当然のことで、けれど、フィンゴルフィンが喜び勇んで遠い道のりに馬を走らせたのには、その先にいる人物の顔を見たかったのも確かで。
いつの間にか目の前に置かれたカップを手に取ると、妻はにこりと微笑んで、「フィンウェさまとフィナルフィン殿と、それから、フェアノール殿のご様子はいかがでした?」と言った。
TOP
|
|