やってしまった。
 思ったときには事態は遅く、トゥアゴンは頭を抱えたい気持ちをどうにか堪えて、そして胸の辺りで痞えてしまった呼吸を意識して吐き出した。
 ああ、ああ、もう。
 どうして、自分が申し訳ない気持ちになっているのだ。

「……――フィンロド」
 シーツに顔を埋めてしまった彼の名前を呼ぶ。返事はなかった。
 その代わりだというように、肩だけが震えていて。
 これはどうしようもないかな、と、もう一度嘆息したトゥアゴンに、少しだけ間を置いてようやく、フィンロドは顔を上げないまま呟いた。
「きみはばかだ」
 声は涙で掠れていたけれど、それでもハッキリとそう言って、フィンロドはぎゅっと、力いっぱい、トゥアゴンの膝に掛かったその白いシーツを握り締めた。
 繰り返し、彼は言う。
「きみは、ばかだ」

 都の中心地に設けられた、白く、高い舞台がある。唱歌や歌劇、剣舞、様々な催し事に使用されるその場所で、彼らは今日、剣の稽古をしていた。
 普段ならば稽古のために使ったりはしないのだが、偶然、たまには良いのではないかということになったのだ。気分転換。人目につくその場所で剣を振るうことは、自分の立場を意識することにも良いだろうとのことだった。
 滅多に触れることのない真剣での稽古。既に充分に腕のある彼らは、普段どおりに互いの剣をあわせ、地を蹴って舞って見せた。
 互いの刃が触れるたびに響く甲高い音は民の目を集め、増してゆく集中力は、それを若い公子の打ち合いとして他者の目に触れるに充分な威勢と、何より美しさを知らしめた。次第にそれは稽古でも、ましてや試合でもない、――剣舞、或いは、物語を思わせる詩歌のように、大衆の感嘆と高潮を誘っていた。
 トゥアゴンが踏み込み、フィンロドの一手を避けて間合いを詰めたときだ。突然に、それは起こった。
 中央、両サイドに備えられた長く大きな階段がある。白石の晒されたその段で、フィンロドが足を踏み外したのだ。

「――だって、私が手を伸ばさなければ、きみが落ちていたんだよ?」
「そんなことは知らない。私の知ったことじゃないよ」
 どうにか納まったらしい涙を右手でごしごしと拭いながら、フィンロドはようやく顔を上げた。何とも自分勝手なことを言い、真っ赤になった目でトゥアゴンを睨む。
 そんな顔をされたって困る。トゥアゴンにしてみれば本当に無意識のことで、自分でも何が起こったのか瞬時には理解できなかったのだから。
 気が付いたら衝撃は治まっていて、次いで痛みだけが身体に残った。
 バランスを崩して落下しそうになったフィンロドにとっさに手を伸ばして身体を抱え、庇うようにして階段を転げ落ちたのだと、そう気付く前に、全身を蔽った痛みに耐えかねた脳が思考をシャットアウトしたのである。気付いたら寝台の上だった。
 目覚めてすぐにぼろぼろと涙を零した従兄弟の顔を見て、しまった、と思ったのだ。
 やってしまった、と。

「きみは勝手だ」
 ばかの次は、勝手と来たか。
 このままでは埒が明かないと悟ったトゥアゴンは、はいはい、と、まるで幼子をあやすようにフィンロドの頭を撫でてやった。腕は少し痛んだが、気になるほどではなかった。
 そして、思う。自分の判断は間違っていなかった。それだけは自信をもって言えた。
「驚いたんだ」
 髪を撫でるトゥアゴンの手を取って、フィンロドはぼそりと言った。それは、この涙は驚きで出てきたのだと言い訳しているようにも聞こえて苦笑したトゥアゴンに、それがさらに気に入らないらしく、フィンロドはやはり怒ったような視線を投げかけ、再びぎゅっと、握った手に力を入れた。
「とても恐かったよ。だって名前を呼んでも、応えてくれないんだもの」
「私だって恐かった」
 伸ばした手が、届かなければどうしようと。
 必死に腕の中に閉じ込めたのは、視界に流れた金色の髪が消えてゆくのが、恐かったからだ。
「……悪かったよ」
 別に悪い事をしたわけではなかったけれど、トゥアゴンは自然とその言葉を口にした。それを否定するように俯いて、フィンロドがゆるゆると首を振る。金の髪の隙間から、ありがとう、と聞こえた。
 助けてもらったらありがとう、だ。助けた側なのに謝罪しか出てこなかった自分よりは、余程適切な台詞と言えただろう。しかし彼は続けた。顔を上げ、真っ直ぐにこちらを見る。やはり怒った顔をして、目尻に浮かんだ水滴を拭うこともせず、けれど、と。
「けれど、もうこんなことは許さないから」
「……それは……」彼が何を思って何と言ったのか、理解が遅れて口ごもる。「……きみの決めることじゃないだろう」
 さすがに少しムッとして声を低くしたトゥアゴンに、しかしいたく真剣な様子で、フィンロドは言葉を続けた。
「良いんだよ。私が勝手に言っているだけなんだから。私が言いたくて言っているだけなんだから。別にきみが私の言うことを聞く必要なんてない」言いながら、フィンロドは瞬きもせずにじっと、トゥアゴンを見ていた。「でも、私は、許さないから」
 一瞬、沈黙。
 それから再び、フィンロドの目から涙が落ちた。
「……なんで、泣くかな」
 呆れを含んで問うと、フィンロドは「トゥアゴンが泣かしているんじゃないか」、と、やはり勝手なことを言ってきた。
 勝手だけれど、その通りだ。
 泣かせたかったわけじゃないんだけどな、と思うと、やはり自分が悪かったような気がしてくる。否、この場合良いも悪いもないことは解っているのだが、しかしどうも、弱い。
「……フィンロド、頭が痛い」
「そりゃそうだよ、こぶがあるもの。後頭部の左側」
「そうじゃなくて」
 そうじゃなくて。
 きみが泣くから、頭が痛いんだ。
 言うと、既に自分ではコントロールできなくなっているのだろう。フィンロドはやはり、目を赤くしてこちらを睨み、ぼろぼろと涙を零した。


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